世界遺産の謎に迫る/八幡製鉄所立ち上げ時の苦難
・製鉄所建設前に失脚した、野呂景義が呼び出される。
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
急遽、野呂景義が呼び出される
送風停止が原因であると指摘。
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
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日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
2140日に亘って出銑を続けた。
八幡製鐵所創業の意義
貢献することになった。
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
野呂景義の功績
前職が新日鐵の高炉設備エンジニアとして解説します。原因や改善策は、今日の設備設計や操業技術の重要な基礎となっています。
現場で自ら培った技術によるものであると思います。
不調の高炉に、このような抜本的な改善を施した。
そしてその後の順調に操業を進め、今日の八幡製鉄所の基礎を築いたことは、
恐るべき功績であると思います。
【遺産の裏側に隠された物語】
お問合せ (日本語又は英語で対応します)
ジャパン九州ツーリスト(株) 福岡県知事登録旅行業 第3-688号
電話 093-521-8897 FAX 093-521-8898 Email info@japan-kyushu-tourist.com 〒802-0001 福岡県北九州市小倉北区浅野3-8-1 AIMビル6階 |
世界遺産の謎に迫る / 官営製鐵所がなぜ八幡に立地
第一候補地は門司の大里だった!
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる。
大里(門司区)、板櫃(小倉北区)、八幡(八幡東区)、大牟田、長崎
お互いに一歩もゆずらなかった。
②海上・陸上の交通の便がよいところ③原料と燃料が得やすいところ。
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呉 大 里 八 幡
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
起死回生の政治工作を行う。
長官和田維四郎を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。
八幡出張の辞令が出された。
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安川敬一郎 芳賀種義
村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の半値で売り払うことに協力した。
公布された。
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そして、1901年に東田第一高炉が火入し、日本の近代製鉄の幕が開いた。
八幡に製鉄所を立地に決定的な役割を果たした。
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世界遺産の謎に迫る/日清戦争以前の製鉄所建設構想
製鉄所建設のきっかけを作った 清国(中国)の漢陽製鉄所。
その中に技術者として「野呂景義」も参加した。
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*失脚した、野呂景義はその後、官営八幡製鐵所立ち上げに大きく貢献する。
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世界遺産の謎に迫る/製鐵所操業開始までの紆余曲折
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
中心的な役割を果たす。
製鉄所建設構想を作り上げた「野呂景義」が考えられるが、初代長官の山内が、
「大島道太郎」を任命した。
大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
そしてドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぐ。
二瀬炭鉱を買収し、原料供給上の基礎を開いた。
製鐵所の操業が開始させた。
和田維四郎は日本鉄鋼協会から「故製鉄功労者」9名の中の1人として表彰された。
①製鐵所構想案を拡充する「設立案」の策定
②外国人技師・職工長の雇入れ
③原料の確保
④建設工事の推進と作業開始式挙行
⑤販売などの運営方針策定
試行錯誤で日々が苦労の連続。
財政難に陥った。
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世界遺産の謎に迫る/八幡製鉄所立ち上げ時の苦難
・製鉄所建設前に失脚した、野呂景義が呼び出される。
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
急遽、野呂景義が呼び出される
送風停止が原因であると指摘。
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
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日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
2140日に亘って出銑を続けた。
八幡製鐵所創業の意義
貢献することになった。
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
野呂景義の功績 前職が新日鐵の高炉設備エンジニアとして解説します。
原因や改善策は、今日の設備設計や操業技術の重要な基礎となっています。
現場で自ら培った技術によるものであると思います。
不調の高炉に、このような抜本的な改善を施した。
そしてその後の順調に操業を進め、今日の八幡製鉄所の基礎を築いたことは、
恐るべき功績であると思います。
その陰には、絶え間ない日々の努力があったものと考えます。
製鉄の業起こらざれば万業振るわず。
【遺産の裏側に隠された物語】
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世界遺産 & 近代化産業遺産 ~製鉄編~
北九州の世界遺産 &近代化産業遺産 ~製鉄編~
登録されました。
その推薦理由は、次のことを次世代に継承するめである。
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こ北九州市には、世界文化遺産候補だけでなく、数多くの近代化産業遺産があります。
その場所を巡れば、この地で日本の産業が発達した訳や世界文化遺産となった
理由が見えてきます。
●北九州市の近代化産業遺産 ~製鐵編~
八幡製鉄所の創業2年前に建設された日本と西欧の建築様式を
併せ持った建物。建物内には、長官室、顧問技師室、外国人技師室 などがあり、製鉄所の重要な施設でした。 1922(大正11)年までは、本事務所として使用されていましたが、
その後、研究所や検査部門などに利用されました。
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旧鍛冶工場はドイツの会社が設計、鋼材加工、仮組立を行った後、
国内で建設された鉄骨建築物です。 屋根はドイツ式の丸屋根形式、タイル張りされた床面は鉱滓煉瓦で
作られています。 鍛冶工場では、高温に熱した鉄を大型のプレス機械でたたきながら
形を整え、機械据付け用の金物や大型の工具を作っていました。
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ドイツの会社が設計した鉄骨建築物です。当時の製鉄所には、
製作加工や機械の組立、修理を行う工場群があり、ここはその 中心的な施設でした。 現存する日本で最も古い鉄骨構造の建物で、現在でも修理工場として使用されています。建物南側の壁には赤煉瓦が積まれ、創業当時の面影が残っています。
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1906年に鋼材生産量をそれまでの2倍の18万トンとする第一次拡張
計画が立案され、更なる大量の水が必要となり、遠賀川から製鉄所 まで水を送るため、遠賀川水源地ポンプ室が造られました。 操業当時は、蒸気ポンプを使用していましたが、1950年に電動化 されました。 建物は今も当時のまま使用されています。
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1901年(明治34年)日本の産業近代製鉄がここで生まれた。
多くの人々の手によって日本の近代化産業の礎がここで築かれた。 そして、日本の産業発展の道程、先人たちの功績を後世に伝えるべく 1972年(昭和47年)まで操業を続けた10代目の東田第一高炉が保存されている。 |
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昭和2年に完成した、工業用水を供給するための貯水池。
沼田尚徳、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を 具現化すべく英知と情熱を注いだ大事業。 自然と調和した、心和む河内貯水池へ是非お越しください。 この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と情熱」の物語がここに あります。 |
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小倉北区の木町にある、紫川取水場ポンプ室。
一見すると教会か倉庫のように見えてしまう建物だが、 1918年建設され、現在も現役で新日鐵の工業用水の供給に 使用されている。 |
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1927年(昭和2年)完成した、アール・デコ調建築の洋館。
1989年に北九州市建築文化賞を受賞した。 大谷会館は1927年(昭和2年)に当時の官営八幡製鉄所の 社員クラブとしてオープンした。 今は、食事、宴会や結婚式場として一般の人も利用できます。 |
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1922年(大正11年)に着工し、1924年(大正13年)に完成した八幡製鉄所専用に建造された石積み岸壁です。
一個一個の石を同じ大きさに加工し、丁寧に積み上げた石壁は、 今も当時のままの姿を残している芸術作品でもある。 現在は港湾緑地帯として整備され、市民の憩いの場とっこなっています。
|
裏側に秘められた人間ドラマも紹介します。
北九州の魅力的な顔を皆さんにたっぷり紹介します。
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【関連リンク】
・
・北九州の産業観光ツアー
世界遺産 & 近代化産業遺産 ~製鉄編~
北九州の世界遺産 &近代化産業遺産 ~製鉄編~
登録されました。
その推薦理由は、次のことを次世代に継承するめである。
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こ北九州市には、世界文化遺産候補だけでなく、数多くの近代化産業遺産があります。
その場所を巡れば、この地で日本の産業が発達した訳や世界文化遺産となった
理由が見えてきます。
●北九州市の近代化産業遺産 ~製鐵編~
八幡製鉄所の創業2年前に建設された日本と西欧の建築様式を
併せ持った建物。建物内には、長官室、顧問技師室、外国人技師室 などがあり、製鉄所の重要な施設でした。 1922(大正11)年までは、本事務所として使用されていましたが、
その後、研究所や検査部門などに利用されました。
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旧鍛冶工場はドイツの会社が設計、鋼材加工、仮組立を行った後、
国内で建設された鉄骨建築物です。 屋根はドイツ式の丸屋根形式、タイル張りされた床面は鉱滓煉瓦で
作られています。 鍛冶工場では、高温に熱した鉄を大型のプレス機械でたたきながら
形を整え、機械据付け用の金物や大型の工具を作っていました。
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ドイツの会社が設計した鉄骨建築物です。当時の製鉄所には、
製作加工や機械の組立、修理を行う工場群があり、ここはその 中心的な施設でした。 現存する日本で最も古い鉄骨構造の建物で、現在でも修理工場として使用されています。建物南側の壁には赤煉瓦が積まれ、創業当時の面影が残っています。
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1906年に鋼材生産量をそれまでの2倍の18万トンとする第一次拡張
計画が立案され、更なる大量の水が必要となり、遠賀川から製鉄所 まで水を送るため、遠賀川水源地ポンプ室が造られました。 操業当時は、蒸気ポンプを使用していましたが、1950年に電動化 されました。 建物は今も当時のまま使用されています。
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1901年(明治34年)日本の産業近代製鉄がここで生まれた。
多くの人々の手によって日本の近代化産業の礎がここで築かれた。 そして、日本の産業発展の道程、先人たちの功績を後世に伝えるべく 1972年(昭和47年)まで操業を続けた10代目の東田第一高炉が保存されている。 |
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昭和2年に完成した、工業用水を供給するための貯水池。
沼田尚徳、「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を 具現化すべく英知と情熱を注いだ大事業。 自然と調和した、心和む河内貯水池へ是非お越しください。 この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と情熱」の物語がここに あります。 |
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小倉北区の木町にある、紫川取水場ポンプ室。
一見すると教会か倉庫のように見えてしまう建物だが、 1918年建設され、現在も現役で新日鐵の工業用水の供給に 使用されている。 |
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1927年(昭和2年)完成した、アール・デコ調建築の洋館。
1989年に北九州市建築文化賞を受賞した。 大谷会館は1927年(昭和2年)に当時の官営八幡製鉄所の 社員クラブとしてオープンした。 今は、食事、宴会や結婚式場として一般の人も利用できます。 |
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1922年(大正11年)に着工し、1924年(大正13年)に完成した八幡製鉄所専用に建造された石積み岸壁です。
一個一個の石を同じ大きさに加工し、丁寧に積み上げた石壁は、 今も当時のままの姿を残している芸術作品でもある。 現在は港湾緑地帯として整備され、市民の憩いの場とっこなっています。
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裏側に秘められた人間ドラマも紹介します。
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・
・北九州の産業観光ツアー
北九州市の世界遺産ツアー!
ユネスコが認めた、世界の誰もが成しえなかった『急速な産業発展』を
全世界に伝える、北九州の世界遺産群。
世界遺産に登録された施設を案内しながら、日本の急速な産業発展を紹介します。
①世界遺産眺望スペース ②旧鍛冶工場 ③修繕工場 ④遠賀川水源地ポンプ室
更に、近代化産業遺産の案内や産業観光も組みあわせながら、日本の産業発展について
あらゆる角度から紹介していきます。
世界遺産のことは弊社にお任せ下さい! 実体験をもとに伝える世界遺産
新日鐵時代に製鉄所の主要設備である高炉の設計から建設業務に携り、
官営八幡製鐵所創業時に技術導入したドイツのGHH社とも肩を並べて仕事をしてきた実体験も
込ながら、北九州で行われた『日本の急速な産業発展』を紹介して行きます。
1)世界遺産バスツアー(北九州発着の企画型ツアー) *外国人向けの企画も行います。
(英語でも案内可)
●東田地区
①世界遺産眺望スペース ②旧鍛冶工場 ③修繕工場 ④東田第一高炉 ⑤八幡泊地(堂山成品岸壁)
製鉄所建設時の様子、操業立上げ時の苦難、そして遺産群が現在まで見てきた、経験してきた
戦争、公害問題、更には環境未来都市・北九州になるまでの出来事を紹介します。
●関連地域
①くろがね線 ②河内貯水池 ③遠賀側水源地ポンプ室 ④堀川
日本の産業発展に貢献した遺産を巡り、先人達の苦難の取組を紹介します。
3)
洞海湾クルーズ・所要時間 1時間
・料金 55,000円 (ガイド付き)
4)世界遺産オプショナルツアー
上記3コース以外でもご要望に応じて企画することができます。
料金は内容によって異なりますのでお問合せください。 *外国人向けの企画も行います。
明治日本の産業革命遺産は、今までの世界遺産と大きく異なる。
現在までの産業発展の歴史と人々の取組を伝えなければならない。
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荒神森古墳 門司城 ペリー来航
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和田維四郎 安川敬一郎 野呂景義
今回の世界遺産登録に至までの理由を、古墳時代まで遡りながら現代まで、北九州の舞台で
繰り広げられた歴史と人々の営みを紹介します。 講演の概要
お問合せ (日本語又は英語で対応します)
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先人たちの功績
北九州の産業観光
先人たちの功績
北九州の産業を創り上げ、繁栄に導いた先人たちをご紹介します。
1 鮎川 義介 Aikawa Yoshisuke 戸畑の発展に寄与し、日産コンツェルン形成
1880年、山口市で生まれ。長州藩士と、明治の元勲・井上馨の姪の長男。東京帝国大学卒業後、
芝浦製作所(後の東芝)に入社したが「日本の機械技術に独自のものはない」と渡米。鋳物会社で
当時の最新の可鍛鋳鉄製造技術を習得。帰国後1910年、29歳で北九州市戸畑区に戸畑鋳物㈱
(現・日立金属㈱)設立。資本を大衆から集めて日産自動車を始めとした日産コンツェルンを形成、
『日本資本主義の父』。戸畑漁港発展の先駆けとなる戸畑冷蔵を設立、その後の共同漁業
(後の日本水産)の下関からの移転に結びつく。
2 浅野 総一郎 Asano Soichiro 一代で関連企業50社以上の浅野財閥を築く
1848年、富山県氷見市生まれ。村医者の息子。24歳で上京して一杯一銭の水売り商から始め、
多量のコークスをセメント工場へ売り込んだことが契機となり、後にセメント事業を興し、海運業、
石炭業、港湾事業など次々と新しい事業を拡大。『明治のセメント王』と言われ、一代で関連企業
50社以上の巨大な浅野財閥を築いた。1893年浅野セメント㈱門司分工場を設立、1918年東京製鉄
㈱小倉製鉄所の経営を引受け、浅野製鋼所㈱を設立(後の住友金属工業㈱小倉製鉄所)、小倉築港
事業に関わり、地域の経済発展にも大きく貢献した。
3 安川 敬一郎 Yasukawa Keiichiro 世界のYASKAWAを一代で作り上げた実業家
1849年、福岡城下生まれ。黒田藩士の足軽で儒学者・徳永省易の四男。16歳で安川岡右衛門に
婿入り、18歳で四女の峰と結婚。藩校修猷館に学び、京都に留学。23歳で慶応義塾に入学。
帰郷後、炭坑経営に着手。好況・不況の波の中で、筑豊炭田御三家(安川、麻生、貝島)として、
政財界でも活躍。明治初期における日本工業近代化を支えた「地方の活力」の一つ、「地方財閥の
雄 安川・松本家」を一代で作った実業家。1908年明治専門学校を自己資金で開校、教育にも力を
注ぎ、現在の九州工業大学につながった。
4 松本 健次郎 Matsumoto Kenjiro 父・敬一郎とともに北九州の発展に寄与
1870年、福岡市生まれ。安川敬一郎の次男。1890年、伯父・松本潜の養子となる。2年間のアメリカ
に留学後、父・敬一郎が経営する炭坑業(のちの明治鉱業(株))に入り、父の協力者として事業を推進。
自ら貿易や電機、製鋼、窯業などの事業を興した。1918年、黒崎窯業㈱(現在の黒崎播磨㈱)設立。
明治鉱業(株)、安川電機(株)、九州製鋼(株)などに関わり、北九州の地域発展・産業振興に尽力。
1907年、父・敬一郎とともに私財を投じ、明治専門学校(現在の国立九州工業大学)設立、次代の
技術者教育・育成にも力を注いだ。
5 金子 直吉 Kaneko Naokichi 鋭い先見性を持ち、あらゆる新規事業を生み出した
1866年、土佐生まれ。土佐藩領内商家の子。丁稚奉公先で法律、経済、工学、理学などを学んだ後、
鈴木商店へ。当主が若くして亡くなった後、番頭としてその再建を担う。「これからの日本は工業である」
という、時代の先見性から製鉄、人造絹糸、酒造、製紙、交通、電力などあらゆる新規事業を生み
出す。1904年鈴木商店が門司に大里製糖所を建設し食品工業の展開を進めた。1911年大里製糖所
(直営)、日本製糖㈱大里工場、帝国麦酒㈱、大日本酒類醸造㈱などの食品工業群や鉄鋼関連企業を
設立し、北九州地区産業の発展に貢献。
6 沼田 尚徳 Numata Hisanori 当時、東洋最大級の河内貯水池建設最大の功労者
1875年、水戸市生まれ。水戸藩に代々仕えた武家の家系。1900年京都帝国大学を第一回生として
卒業、当時建設中だった官営八幡製鐵所に技手として任官。製鐵所のみならず北九州工業地帯の
基盤となる土木業を成功に導く。中でも工業用水と水道用水供給の為に北九州郊外に建設した河内
貯水池は当時東洋最大級の規模を誇り、日本を代表する近代化産業遺産の一つ。河内は当時最新の
土木技術を用い、市民公園としての機能を付与することにも腐心、デザインにもこだわっている。
安全管理でも細心の配慮をし、当時西日本最大級の難工事にも関わらず、8年の建設期間中1名の
死亡者も出しておらず、80年経った現在でも漏水やひびなども認められていない。
7 田中 熊吉 Tanaka Kumakichi 八幡製鉄所と共に生きた“高炉の神様”
1873年、佐賀県三養基郡生まれ。農家の三男。1901年、官営八幡製鐵所の職工となる。1912年
技術研修でドイツに派遣、ドイツ語を習得し貪欲に高炉技術を学ぶ。1920年八幡製鐵所の大ストライキ
時は、「溶鉱炉の火を消すな」と高炉操業を陣頭指揮し、同年八幡製鐵所初の宿老に任命。もともと
宿老は戦国時代の武士階級のひとつで、八幡製鐵所の宿老は職工としての最高の地位であり名誉。
若い頃、操業中の事故で左目の視力を失いながらも高炉の状態を音で判断できたといわれる。98歳で
亡くなる直前まで高炉の仕事を続けた。
8 岩崎 俊彌 Iwasaki Toshiya 世界最大のガラスメーカー“旭硝子”創立者 1881年、東京市神田区生まれ。父は一代で三菱財閥を築いた岩崎彌太郎の実弟、母・早苗は明治
維新の元勲、後藤象二郎の長女。ロンドン大学に留学し、3年間応用化学の研究に従事。1907年、
尼崎で旭硝子㈱を創立、ベルギーより手吹式ガラス製造技術を導入。1914年に米国よりラバース式
機械吹法を導入、北九州牧山に新鋭工場を設立。当時、誰も成しえなかった手吹円筒法による板ガラス
の国産化に成功。北九州で機械吹円筒法による板ガラスの生産を導入して一大飛躍を遂げた。現在
旭硝子㈱は、世界最大のガラスメーカー。
9 大倉 孫兵衛 Okura Magobei 衛生陶器研究でTOTO設立の基礎を創り上げた 1843年、江戸四谷生まれ。絵草紙屋二代目・大倉四郎兵衛の次男。義兄・森村市左衛門が設立した
森村組で陶器事業の日本における調達を担当。国内の既製品だけでは売上が伸びないと、海外用に
西洋式コーヒー茶碗などを森村組で生産。さらに硬質白色磁器生産のため、7年に及ぶ苦心の末に
国内原料での生産を実現。1904年日本陶器合名会社を設立し、名古屋市則武の工場を立ち上げた。
1912年、長男・和親と工場内に「製陶研究所」を設置、衛生陶器の研究を行わせ、後のTOTO設立の
基礎を作った。今日の㈱ノリタケ、日本ガイシ㈱、日本特殊陶業㈱、などわが国有数の陶器製造産業の
基礎となる。
10 大倉 和親 Okura Kazuchika 父とともに陶器産業に貢献、TOTOの初代社長
1875年、東京日本橋生まれ。大倉孫兵衛の長男。1894年慶応義塾本科を卒業。父が幹部である
森村組に入社。1904年名古屋市近郊則武に森村組が設立した日本陶器合名会社の初代社長に弱冠
29歳で就任。当初は米国輸出用のディナーセットに苦労するが、完成後「ノリタケチャイナ」のブランドを
確立。1912年製陶研究所を設け衛生陶器の製造研究、便器などを試販。1916年福岡県企救郡
(現在の北九州市小倉北区)に小倉工場を建設。1917年工場開始にあたり東洋陶器㈱として独立。
日本陶器合名会社(現ノリタケカンパニーリミッテッド)、東洋陶器(現TOTO)、日本碍子(現日本
ガイシ)を創立、初代社長となった。
11 国司 浩助 Kunishi Kosuke トロール漁船の発展に寄与し、
東洋一の戸畑漁港を建設
美家の三男。水産講習所卒業後、政府から英独両国へ派遣、トロール漁業の現場を英国で学ぶ。
帰国後は田村市郎(後の日本水産㈱創立者)の支援を得て、田村汽船漁業部設立、本格的にトロール
漁業を開始。トロール漁業の発展の基礎を作上げた。東洋一の戸畑漁港の建設、ディーゼル・トローラー
ならびに冷凍冷蔵装置を装備したトロール漁船による遠洋漁業の開拓、南氷洋における日本最初の
捕鯨工船事業の創始など、新技術導入と化学的・合理的な経営によって、
今日の水産日本の礎を築く。
高 炉
高炉は鉄鉱石から 「銑鉄」をつくる設備です。
工場見学で案内する戸畑第4高炉を紹介します。
2014年に改修工事が行われ、新しく生まれ変わった高炉です。
内容積が5,000m3で1日に10,000トン以上の銑鉄を製造することができます。
工場見学
バスを降りたら、目の前にそびえる大きな高炉の全貌を見てもらいます。
それから、鋳床に上り、真赤に溶けた銑鉄が実際にでれ来る様子を見学してもらいます。
昼夜休みなく稼働し続ける、ダイナミックな工場を肌で感じてもらいます。
高炉とは
上部から鉄鉱石とコークスが交互に挿入されて、炉内に積まれ、
下にある羽口というところから、熱風炉で熱せられた熱風が吹き込まれます。
その温度は2200~2500℃にも達します。
炉内で鉄鉱石の酸素がコークスの燃焼で発生した一酸化炭素ガスと作用して
還元され、鉄分が底に沈殿します。
その鉄は、この過程で炭素を吸収するので「銑鉄」と呼ばれます。
つまり銑鉄は高炉で作られた鉄で、炭素を1.7%以上含んでいるため
硬くて脆く、強く叩いただけで割れてしまいます。
その銑鉄はトピードカーで製鋼工場に運ばれ、転炉に入れて酸素を吹き込み精錬作業が行われます。
写真は東田高炉記念広場に展示してある、トピードカーと転炉です。
銑鉄を製鋼工場に運ぶトピードカー 酸素を吹き込み精錬する転炉