Japan KYUSHU Tourist  ジャパン九州ツーリスト株式会社

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TEL +81 93-521-8897
FAX +81 93-521-8898
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東田1BF

●高炉設備の様子
       
鉄鉱石、コークスを炉頂に投入するスキップカー       真赤に溶けた銑鉄が出てくる鋳床

  
    銑鉄が出銑口から出てくる様子              出銑口前での作業の様子

  
   銑鉄を製鋼工場に運搬するトピードカー         銑鉄を酸素で精錬する転炉

  
    1300℃の熱風を作る熱風炉             熱風が流れる熱風管の内部に積まれた煉瓦

  
    ダストとガスを回収する除塵機          昭和47年停止した時に高炉内で固まった鉄とスラグ


●製鉄所の歴史
  
  製鉄所建設前はのどかな寒村 八幡村         鉄の街へと村民の心を動かした芳賀村長

    
建設中の東田第一高炉 明治33年    旧本事務所と東田第一高炉 明治44年 

    
     東田の高炉群 昭和21年頃                発展する八幡 昭和30年頃 

       
      建設時の東田第一高炉 昭和37年           吹止め時の東田第一高炉 昭和47年


●製鉄の礎を築いた先人達                      
                                
  河内貯水池を完遂させた沼田尚徳          100歳まで現役で働き続けた高炉の神様田中熊吉


●活躍したオリンピック選手
  
   田中聡子ローマ五輪でメダル 昭和35年         君原健二 メキシコ五輪で銀メダル 昭和43年


●鉄づくりについて学ぶ
  
            高炉の設備                        鉄づくりの原理


●八幡製鉄所に鋼材を使った代表的な建築物
    
        
国会議事堂                        ワールドトレードセンター

  
        関門橋、新幹線                          北九州市庁舎


●公害克服の歴史
  
      昭和35年頃の大気汚染                                   現在の環境未来都市北九州の様子


【東田高炉記念広場】

・公開時間:9:0017:00
・休館日:毎週月曜日、年末年始(月曜日が祝日の場合は火曜日)

若松南海岸(若松港)

レトロな町並み・若松南海岸
洞海湾の畔にある、かつて石炭の積出港として賑わった
若松のまちの面影を残す場所。
今も現役の大正期建築物が多く立ち並び、港町・若松を象徴するエリアとなっています。
 

若松南海岸の歴史
筑豊の石炭は、遠賀川から芦屋経由で、輸送されていたが、1894年に遠賀川と洞海湾を結ぶ
堀川が完成
した後は、堀川を使って若松経由で運ばれるようになった。

そして石炭の需要増に伴い、門司港が築港を開始した翌年の1890年(明治23年)、若松港を
石炭積出港として築営することを目的として、安川敬一郎を中心として若松築港会社が設立され、
1898年(明治31年)に開港しました。
  
また1891年(明治24年)には筑豊興業鉄道により、若松駅―直方駅間の鉄道路線が
開業しました。
そのことにより、石炭がどんどんと鉄道を使って若松港に集められ全国に送っていき、
“石炭の町、若松”として日本中に知られていきます。
  
 
最盛期には若松駅の1日の貨物の取扱量が全国の駅で1番多い時期があったそうです。
若松に集められた石炭は「ごんぞう」とよばれた石炭荷役たちによって船に積み
込まれていきました。
いま若松には映画館は一つもなくなってしまいましたが、最盛期にはたくさんの映画館や
芝居小屋があり、当時石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、石炭景気で若松は繁栄していきました。
 
一方で、1896年(明治29年)に国会で製鉄所設置決議案が承認されました。
製鉄事業調査会で製鐵所の条件に会う場所を調査し、製鐵に必要な石炭の供給や輸送の
利便性等が評価され、洞海湾を挟んだ対岸の八幡に決定されました。
1901年(明治34年)に東田第一高炉で火入れが行われ、日本の産業近代化の
歴史が始まりました。
 


若松南海岸(若松港)

レトロな町並み・若松南海岸
洞海湾の畔にある、かつて石炭の積出港として賑わった
若松のまちの面影を残す場所。
今も現役の大正期建築物が多く立ち並び、港町・若松を象徴するエリアとなっています。
 

若松南海岸の歴史
筑豊の石炭は、遠賀川から芦屋経由で、輸送されていたが、1894年に遠賀川と洞海湾を結ぶ
堀川が完成
した後は、堀川を使って若松経由で運ばれるようになった。

そして石炭の需要増に伴い、門司港が築港を開始した翌年の1890年(明治23年)、若松港を
石炭積出港として築営することを目的として、安川敬一郎を中心として若松築港会社が設立され、
1898年(明治31年)に開港しました。
  
また1891年(明治24年)には筑豊興業鉄道により、若松駅―直方駅間の鉄道路線が
開業しました。
そのことにより、石炭がどんどんと鉄道を使って若松港に集められ全国に送っていき、
“石炭の町、若松”として日本中に知られていきます。
  
 
最盛期には若松駅の1日の貨物の取扱量が全国の駅で1番多い時期があったそうです。
若松に集められた石炭は「ごんぞう」とよばれた石炭荷役たちによって船に積み
込まれていきました。
いま若松には映画館は一つもなくなってしまいましたが、最盛期にはたくさんの映画館や
芝居小屋があり、当時石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ、石炭景気で若松は繁栄していきました。
 
一方で、1896年(明治29年)に国会で製鉄所設置決議案が承認されました。
製鉄事業調査会で製鐵所の条件に会う場所を調査し、製鐵に必要な石炭の供給や輸送の
利便性等が評価され、洞海湾を挟んだ対岸の八幡に決定されました。
1901年(明治34年)に東田第一高炉で火入れが行われ、日本の産業近代化の
歴史が始まりました。
 


鈴木商店

門司の産業発展の礎を築いた鈴木商店 

門司港は明治22年(1889年)に国の特別貿易港に指定されると、明治後半から
大正時代にかけ、人や貨物を載せ日本と海外を行き来する船が寄港する
国際貿易港として繁栄していきます。
事業や販路拡大を願う実業家や貿易商がこぞってこの地を目指し、
三井や三菱などの財閥もこの地に進出を図ります。

門司港が繁栄していく中、わずか数キロ先の門司・大里地区に神戸の貿易商
「鈴木商店」が目を付けて進出してきました。
 
 
  1914年(大正4年)ごろの大里     金子直吉

鈴木商店の歴史
神戸の砂糖商「辰巳屋」に砂糖の鑑別と商才を見込まれた初代創業者鈴木岩次郎が
辰巳屋ののれん分けという形で明治7年(1874年)に開業しました。

それから数年を経て岩治郎が亡くなった後は、2代目店主となった妻鈴木よねとともに、
丁稚奉公から身を起こした金子直吉が鈴木商店の大番頭として驚異的な経営と
拡大を遂げていきました。

樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼
タバコ・ビールなどの事業を展開、さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、
ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなりました。

鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、
更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもあります。

良質な水と海上輸送に適した大里では、1904年(明治37年)の大里製糖所
(現関門製糖)の開業を皮切りに、神戸製鋼門司工場や帝国麦酒(現門司麦酒煉瓦館
など、鈴木商店の発展とともに次々と工場が建設されました。
 
   大里製糖所(現関門製糖)     帝国麦酒(現門司麦酒煉瓦館

1914年(大正3年)焼酎工場を建設し、大里酒精製造所(現ニッカウヰスキー
から始まります。
操業当時は、主に朝鮮や中国向けに輸出する焼酎を製造していました。
焼酎を醸造するための発酵原料として必要な糖蜜、フスマ、ビール酵母などは、
全て隣接地にある鈴木商店経営の大日本製糖、大里製粉、帝国麦酒から容易に
調達することができました。
 
           大里酒精製造所(現ニッカウヰスキー)

世界恐慌などの影響を受け、1927年に倒産しましたが、これらの工場や事業は
日本を代表する企業に引き継がれました。
以来大里地区は日本の産業において重要な地として発展してきました。

 

鈴木商店の傘下で発展した企業

日商岩井(現在の双日)、三菱レイヨン、石川島播磨重工業、昭和シェル石油

日本化学、日産化学工業等


 

 

鈴木商店

門司の産業発展の礎を築いた鈴木商店 

門司港は明治22年(1889年)に国の特別貿易港に指定されると、明治後半から
大正時代にかけ、人や貨物を載せ日本と海外を行き来する船が寄港する
国際貿易港として繁栄していきます。
事業や販路拡大を願う実業家や貿易商がこぞってこの地を目指し、
三井や三菱などの財閥もこの地に進出を図ります。

門司港が繁栄していく中、わずか数キロ先の門司・大里地区に神戸の貿易商
「鈴木商店」が目を付けて進出してきました。
 
 
  1914年(大正4年)ごろの大里     金子直吉

鈴木商店の歴史
神戸の砂糖商「辰巳屋」に砂糖の鑑別と商才を見込まれた初代創業者鈴木岩次郎が
辰巳屋ののれん分けという形で明治7年(1874年)に開業しました。

それから数年を経て岩治郎が亡くなった後は、2代目店主となった妻鈴木よねとともに、
丁稚奉公から身を起こした金子直吉が鈴木商店の大番頭として驚異的な経営と
拡大を遂げていきました。

樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼
タバコ・ビールなどの事業を展開、さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、
ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなりました。

鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、
更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもあります。

良質な水と海上輸送に適した大里では、1904年(明治37年)の大里製糖所
(現関門製糖)の開業を皮切りに、神戸製鋼門司工場や帝国麦酒(現門司麦酒煉瓦館
など、鈴木商店の発展とともに次々と工場が建設されました。
 
   大里製糖所(現関門製糖)     帝国麦酒(現門司麦酒煉瓦館

1914年(大正3年)焼酎工場を建設し、大里酒精製造所(現ニッカウヰスキー
から始まります。
操業当時は、主に朝鮮や中国向けに輸出する焼酎を製造していました。
焼酎を醸造するための発酵原料として必要な糖蜜、フスマ、ビール酵母などは、
全て隣接地にある鈴木商店経営の大日本製糖、大里製粉、帝国麦酒から容易に
調達することができました。
 
           大里酒精製造所(現ニッカウヰスキー)

世界恐慌などの影響を受け、1927年に倒産しましたが、これらの工場や事業は
日本を代表する企業に引き継がれました。
以来大里地区は日本の産業において重要な地として発展してきました。

 

鈴木商店の傘下で発展した企業

日商岩井(現在の双日)、三菱レイヨン、石川島播磨重工業、昭和シェル石油

日本化学、日産化学工業等


 

 

熱延工場

新日鐵住金㈱ 八幡製鉄所 熱延工場

工場見学でご案内する熱延工場を紹介します。

1100℃以上に加熱された厚さ25cmの厚い板を、圧延機で1.2~25㎜程度の薄い板に
圧延する工場です。

目の前で、ゴーゴーと音を立ててダイナミックに圧延される様子をご覧になれます。
そして単時間にうちに、薄く引き延ばされ、冷却しされ、即トイレットペーパーみたいにコイル状に
巻かれた薄い鉄板を最後に見てもらいます。

 
  厚さ25cmの板が薄く引き延ばされいる様子      熱延が終わってコイル状にまかれた鉄板

この工場は、1982年に営業運転を開始。
最新のコンピューターシステムを導入し、極限まで自動化して、少人数で管理されています。

厚さ250㎜ 長さ11mのスラブを加熱炉で約1000℃~1300℃に加熱
一直線に並んだ複数の圧延機で連続的に圧延し、最終的に1.2~25㎜程度まで薄くして
コイル状に巻き取ります。
最終の仕上げ圧延では、時速100km近い速度で鋼板が走ります。

是非、豪快な圧延工程をご覧ください。


新日鐵住金/八幡製鉄所工場見学

シャボン玉石けん

シャボン玉石けん株式会社 

良質な天然油脂から昔ながらの製造法で無添加石けんを製造している日本唯一の会社。
無添加なので肌に優しい、環境に優しい石けん。
  

明治43年(1910年)に「森田範次郎商店」として創業を開始し、昭和49年(1974年)年
以前は合成洗剤の製造販売を行っていた。
現在は、酸化防止剤、着色料、香料や合成界面活性剤を使用せず、良質な天然油脂から
昔ながらの釜炊きケン化法で石けんを製造する、全国随一の無添加石けん専門メーカー。
皮膚の弱い人でも安心して使えると評判の高い石けん。

基本情報

 業 種

 石けん製造

 資本金

 3億円

 本 社

 北九州市若松区南二島223の1

 所在地

北九州市若松区南二島223の1

 所在地電話番号

093-791-4800 工場見学専用電話 093-588-5489

 URL

hppt://www.shabon.com

 創業年

明治43年(1910年)

 従業員数

 100

 上 場

無添加石けん製造の経緯
無添加石けんへの切換えの経緯は、昭和46年(1971年)、国鉄(現JR)から
「合成洗剤は錆びやすい」と蒸気機関車の洗浄用に添加物を入れない石けんを依頼され、
無添加石けんを試作しました。

森田光徳社長自らが10年近く悩まされてきた湿疹の原因が、合成洗剤であったことに
気づきました。

「身体に悪いと分かった商品を売るわけにはいかない」と昭和49年(1974年)に一大決心の末、
無添加石けんのみの製造販売に切り替えますが、売上はそれまでの1%まで激減し、
70名近くいた社員も4名まで減りました。

 しかし、様々な公害問題が表面化し、無添加石けんの安全性が認知され始めるとともに
少しずつ業績も回復し、平成22年(2010年)年には創業100周年を迎えました。
工場では製造工程の見学のほか、シャボン玉石けんの原料や製法等の説明、家庭排水が
環境に与える影響を考える実験などもあります。

環境の取組
・環境にやさしい無添加石けんの製造・販売
・平成11年(1999年)に環境マネジメントシステムのISO14001認証取得
・石けん系消火剤ミラクルフォームの開発(消防車専用の消火剤)
環境にやさしく、消火効率が高い。水のみと比べ、放水量は約17分の1です。

 

 関連リンク】
近代化産業遺産 in 北九州
近代化産業遺産 製鉄編

北九州の産業観光ツアー

 


安川電機

株式会社安川電機 

産業用ロボットやサーボやインバーター、更には製鉄用の制御装置を製作している会社。
創業は大正4年(1915年)、創業者である
安川敬一郎が、息子・健次郎(松本)・清三郎・
第五郎とともに設立した合資会社安川電機製作所が始まり。
     

基本情報

 業 種

 電気機器

 資本金

 230億円

 本 社

 北九州市八幡西区黒崎城石21

 所在地

北九州市八幡西区黒崎城石21

 所在地電話番号

093-645-7705

 URL

http://www.yaskawa.co.jp/

 創業年

大正4(1915)

 従業員数

 14,000人(連結)

 上 場

 東証1

会社プロフィール
創業当時は、主に筑豊炭坑向けの産業用電動機とその制御装置を製造しました。
その後、電動機と制御器を中心に技術開発や製品の高度化を図りました。とくに国産初の
ボールベアリング付きモータはヒット商品となり「モータの安川」の地位を築きました。

その後、電動機と制御器を中心に技術開発や製品の高度化を図りました。とくに国産初の
ボールベアリング付きモータはヒット商品となり「モータの安川」の地位を築きました。

戦後は産業機械向けの小型モータや可変速モータ、さらに工作機械へと進出ました。
昭和33年(1958年)に現在のサーボモータの原型となるミナーシャモータを開発しました。
サーボモータやインバータなどモータ本体の進化と同時に機能と制御を総合化する技術、
産業用エレクトロニクスへの積極的進出をいち早く決断。産業ロボットへ進みます。

昭和47年(1972年)からは、産業用ロボットの独自開発を開始。昭和52年(1977年)に国内初の
全電動式垂直多関節形ロボット「MOTOMAN」を販売して依頼、これまでに世界中へ27万台以上も
出荷され、アーク溶接など自動車産業をはじめとする機械組立工場には欠かせないものとなっています。
 また、現在は制御技術を駆使したサーボ、インバータ製品でも世界トップシェアを誇るほか、
国内で稼働中の鉄鋼プラントには、安川電機の制御装置が100%採用されています。
昭和29年(1954年)建造のモダンな本社社屋は世界的な建築家アントニン・レーモンドの
代表作として知られ、北九州市都市景観賞も受賞。ロボットがロボットを作る世界最大規模の
ロボット工場「モートマンセンタ」には、これまで10万人以上が見学に訪れています。


関連リンク】
近代化産業遺産 in 北九州
近代化産業遺産 製鉄編

北九州の産業観光ツアー 
女子大生が企画 北九州の魅力再発見ツアー【世界遺産編】

 

 


安川電機

株式会社安川電機 

産業用ロボットやサーボやインバーター、更には製鉄用の制御装置を製作している会社。
創業は大正4年(1915年)、創業者である
安川敬一郎が、息子・健次郎(松本)・清三郎・
第五郎とともに設立した合資会社安川電機製作所が始まり。
     

基本情報

 業 種

 電気機器

 資本金

 230億円

 本 社

 北九州市八幡西区黒崎城石21

 所在地

北九州市八幡西区黒崎城石21

 所在地電話番号

093-645-7705

 URL

http://www.yaskawa.co.jp/

 創業年

大正4(1915)

 従業員数

 14,000人(連結)

 上 場

 東証1

会社プロフィール
創業当時は、主に筑豊炭坑向けの産業用電動機とその制御装置を製造しました。
その後、電動機と制御器を中心に技術開発や製品の高度化を図りました。とくに国産初の
ボールベアリング付きモータはヒット商品となり「モータの安川」の地位を築きました。

その後、電動機と制御器を中心に技術開発や製品の高度化を図りました。とくに国産初の
ボールベアリング付きモータはヒット商品となり「モータの安川」の地位を築きました。

戦後は産業機械向けの小型モータや可変速モータ、さらに工作機械へと進出ました。
昭和33年(1958年)に現在のサーボモータの原型となるミナーシャモータを開発しました。
サーボモータやインバータなどモータ本体の進化と同時に機能と制御を総合化する技術、
産業用エレクトロニクスへの積極的進出をいち早く決断。産業ロボットへ進みます。

昭和47年(1972年)からは、産業用ロボットの独自開発を開始。昭和52年(1977年)に国内初の
全電動式垂直多関節形ロボット「MOTOMAN」を販売して依頼、これまでに世界中へ27万台以上も
出荷され、アーク溶接など自動車産業をはじめとする機械組立工場には欠かせないものとなっています。
 また、現在は制御技術を駆使したサーボ、インバータ製品でも世界トップシェアを誇るほか、
国内で稼働中の鉄鋼プラントには、安川電機の制御装置が100%採用されています。
昭和29年(1954年)建造のモダンな本社社屋は世界的な建築家アントニン・レーモンドの
代表作として知られ、北九州市都市景観賞も受賞。ロボットがロボットを作る世界最大規模の
ロボット工場「モートマンセンタ」には、これまで10万人以上が見学に訪れています。


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近代化産業遺産 in 北九州
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北九州の産業観光ツアー 
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関門製糖

関門製糖株式会社 

門司の地で砂糖をつくり続けて100年の伝統企業です。
明治37年に設立さて、鈴木商店の飛躍の原動力となりました。
   

基本情報

 業 種

 食品製造(砂糖の精製)

 資本金

  10億円

 本 社

  北九州市門司区大里本町1丁目21

 所在地

北九州市門司区大里本町1丁目21

 所在地電話番号

  093-381-0531

 URL

 創業年

  明治37(1904)

 従業員数

  60

 上 場

会社プロフィール
ばら印とスズラン印の砂糖を製造する関門製糖(株)の前身は、明治37年(1904年)
鈴木商店が門司に創業した大里精糖所です。
門司が選ばれたのは原料糖(甘しょ)と石炭の調達、船舶と工業用水の確保が
便利だったことが主な理由でした。

明治40年(1907年)大里精糖所は売却され、大日本製糖(株)門司工場となりました。
その後、西日本製糖(株)と社名が変わり、さらに平成13年(2001年)には
日本甜菜製糖(株)と大日本明治製糖(株)(大日本製糖(株)と明治製糖(株)の合併会社)の
砂糖製造を行う生産受託会社となり、社名が関門製糖(株)になりました。

関門海峡を望む工場で砂糖を作り続けて108年、いまも現役の赤レンガ倉庫
(建築年不詳)が歴史を伝えています。
一方、工場はコンピュータシステムによる一貫生産を行っています。
原料糖は主にオーストラリアとタイからの輸入で、約2km離れた門司港公共埠頭で
荷揚げされ、工場内の原料糖倉庫に運ばれます。倉庫は最高21,000t(約40日分)
貯蔵でき、ベルトコンベアで工場内に運ばれます。
現在は大日本明治ブランド(ばら印)と日本甜菜ブランド(スズラン印)の砂糖を
年間12万t製造しています。