鉄鋼の産業発展物語の作成にあたって
2015年7月5日に明治日本の産業革命遺産が世界遺産に登録されました。
製鉄・製鋼、造船及び石炭産業の遺産群で、8県(岩手県、静岡県、山口県、福岡県、
佐賀県、熊本県、長崎県、鹿児島県)にまたがる23の施設で構成されています。
明治日本の産業革命遺産は、今までの世界遺産と大きく異なり、歴史的建造物その物の
価値を紹介するものではなく、日本の産業が、日本人が世界に認めた大きな意義があります。
世界中で誰も成しえなかった、急速な産業発展の取組を世界中に人々に伝えることです。
江戸時代の日本の産業は、欧米から約250年も遅れていましたが、ペリー来航(1853年)
を機に、産業革命の幕が開きました。
最初は欧米から技術導入しましたが、その後は日本独自の方法で技術革新を行い、
短期間のうちに産業が発展し、世界一流の工業国となりました。
なぜ明治日本の産業革命遺産が世界遺産の登録されたのかに興味を持ち、私自身が前職で
携った鉄鋼産業に焦点を当て、ユネスコが認めた「日本の急速な発展」をキーワードに
独自の調査と研究を行い、産業発展物語としてまとめました。
鉄鋼の産業発展物語 / 目 次
日本の産業近代化成し遂げた!基幹産業・鉄鋼
第一篇 古来の鉄づくりから官営八幡製鐵所創業までの歩み
・第 1話 日本最古の鉄器は糸島で出土
・第 2話 種子島に鉄砲伝来
・第 3話 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり
・第 4話 幕末の日本に変化が起きる
・第 5話 日本の産業革命の始まり
・第 6話 反射炉で始まった日本の鉄づくり
・第 7話 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり
・第 9話 官営製鐵所建設の背景 その1
・第10話 官営製鐵所建設の背景 その2
・第11話 野呂景義による幻の製鉄所建設計画
・第12話 営製鐵所建設地が八幡に決定
・第13話 わずか4年で田畑に製鉄所をつくった偉業
第二編 八幡製鐵所創業から終戦までの歩み
・第1話 八幡製鐵所の苦難の船出
・第2話 日露戦争が八幡製鐵所拡張に拍車をかける
・第3話 日露戦争後の反動不況と鉄鋼需要の伸び
・第4話 第一次世界大戦後に鉄鋼需要が大幅に伸びる
・第5話 河内貯水池物語
・第11話 堀川物語
鉄鋼の産業発展物語 第1話 / 日本最古の鉄器は糸島で出土
ヨーロッパに比べて重工業が非常に遅れていた日本が、どのようにして
ヨーヨッパから技術を学び、産業革命を行い、急速な産業発展がなされたのかを
時代を遡ってその物語を紹介します。
物語の始まり
鉄は稲作とともに伝わったと言われている。
造られるようになる。
砂鉄を還元し、鉄をつくる方法。
日本各地で行われた。
発達して行く。
その方法は、鍛造で鉄の板をつくり、それを丸い棒に巻き付け、
溶着させる。ねじのない時代に鉄製の栓をつくり、それを溶着させて
片方を塞ぎ、苦心の末鉄砲を完成させた。
備前・長船、そして城下町鹿児島と仙台などで鉄砲が造られるようになる。
そして、豊臣秀吉の時代に入って、刀や鉄砲づくりの技術は更に進んでいく。
鉄鋼の産業発展物語 第2話 / 種子島に鉄砲伝来
日本に大きな変化が起きる
1543年にポルトガル人が、種子島に来て鉄砲を伝えられ、それを機に
外来の文化が入り始め、日本の中に変化が起き始める。
そして、1549年にはフランシスコ ザビエルが薩摩に来て、それから平戸、
山口などを訪問しキリスト教を伝えた。
1571年にはポルトガル船の寄港地として長崎が開港され、長崎の統治を
イエズス会に託す。
豊臣秀吉は外国に日本が占領されるのではないかと、1587年のバテレン追放令を出し、
キリスト教と南蛮貿易を禁止する。
そして1588年には、豊臣秀吉が幕府の長崎を直轄地とする。
ポルトガル人に侵略を阻止するための手段として、キリスト教を封じるため、
1597年2月5日に26人のキリスト教信者が長崎の西坂の丘で磔によって処刑される。
後にカトリック教会に「日本26聖人」をして聖人に加えられた。
そして、1598に豊臣秀吉が生涯の幕を閉じ、時代は変わって行く。
鉄砲伝来後、日本の鉄づくりが急速に発展する。
鉄鋼の産業発展物語 第3話 / 江戸幕府の政権安定策と鉄づくり
幕府は様々な施策を講じて長期政権の安泰を図る。
1624年にスペインとの国交も断絶した。
による北方交易も行っていた。
江戸幕府防衛を行っていき政権が安定してくる。
製鉄用のたたら炉の大型化、地下構造の充実が進み、輸送・流通事情も改善され、
鉄生産が中国地方に集約されるようになり、製鉄技術も進歩して行った。
第4話は幕末に舞台が移る。
鉄鋼の産業発展物語 第4話 / 幕末の日本に変化が起きる
次第に外国船が来航し、日本との交易を求めてきた。
1647年にポルトガル、1673年にはイギリスが国交回復のため来航、1894年には
長崎にロシアが来航するも幕府は断り続けた。
1824年には、水戸の大津浜に英国捕鯨船員が上陸する事件、1837年にはモリソン号事件で
日本人漂流民を乗せたアメリカ商船が鹿児島湾と浦賀沖に現れ、日本が砲撃した。
1840年のアヘン戦争でイギリスが中国を占領した情報も入り、日本各地で海防強化の
気運が高まった。
1847年には長崎の警備を担当する佐賀藩の鍋島直正が幕府に海防の必要性を献策するも、
その提案は却下された。
そして、1853年には決定的な出来事である、アメリカのペリー率いる黒船が来航してきた。
つづきは第5話で紹介します。
鉄鋼の産業発展物語 第5話 / 日本の産業革命の始まり
ヨーロッパに対して約300年以上も技術が遅れていた。
そして、1709年にはコークスによる高炉操業に成功した。
1783年にはパドル法反射炉が開発されたが、反射炉では高品質の鋼を効率的に
量産できなかった。 そのから、次第に高炉法による鉄づくりに移行していった。
高品質の鉄を連続的に量産できる技術が発達していた。
鎖国政策で海外との交易をオランダと中国に限定していたが、次第に外国船が来航し、
日本との交易を求めてきたが、幕府はそれを断り続けた。
鍋島直正 技術書 反射炉
1847年に幕府に海防の必要性を献策するも、その提案は却下された。
招聘することの叶わない時代でもあった。
の翻訳を伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。
ヨーロッパの技術書を解読しながら、反射炉づくりを開始した。
第6話では、苦難の反射炉づくりを紹介します。
鉄鋼の産業発展物語 第6話 / 反射炉で始まった日本の鉄づくり
ヨーロッパに対し300年も遅れていた日本の鉄づくりの技術では大型の洋式大砲を
製造することは困難であったが、外国の技術者を外国の技術者を招聘することの
叶わない時代でもあった。
ヨーロッパの反射炉 ヒュゲンの技術書
おける鋳造法」の翻訳を伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。
1853年に佐賀藩が、江戸で反射炉試作を行った江川英龍の協力を得ながら築地反射炉を
完成させ、日本で初めて銑鉄性の大砲を製造した。
萩反射炉 韮山反射炉
この反射炉は現存し、世界遺産に登録された。
大量生産を行った。
の侵入事件が起こり、1857年に韮山反射炉を完成させた。これも現存し世界遺産に登録された。
1868年に勃発した戊辰戦争で用いられたと言われている。
1783年にイギリスのH.コートが開発したパドル法の反射炉であった。
大量生産に向いていなかった。
そのためヨーロッパでは次第に反射炉法が廃れ、連続的に大量生産できる高炉法に移行し、
高炉の技術が急速に発達していった。
原料として、反射炉を使う方法を採用し、上述のように各地で多くの沢山建設された。
反射炉の欠点をいち早く見抜き、最初から高炉法の重要性に着目したのが、
南部藩の大島高任であった。
大島高任 釜石の洋式高炉跡
安定して鉄を大量に生産するためには高炉が必要だと、釜石において日本で最初の
洋式高炉建設に取り掛かる。
第7話は、舞台を釜石に移し、高炉による鉄づくりを紹介します。
鉄鋼の産業発展物語 第7話 / 釜石で始まった洋式高炉による鉄づくり
1854年に薩摩藩が集成館で日本で最初に高炉を建設したが、原料の制約などから
本格的な生産体制は構築できなかった。
薩摩藩 集成館 北海道 古武井
また、1855年には、函館奉公傘下の北海道古武井でも建設されるが、
砂鉄を原料とした高炉だったので成功しなかった。
高炉の経験のない大島高任は、自ら翻訳した蘭書に理論を基に技術化を図り、
大橋第1高炉を1857年3月に着工して、釜石の鉄鉱石を使って同年12月1日に
火入れして初出銑を行った。
高炉の形状は、高さ6mx縦横4.2mの花崗岩積に上に
炉床径0,7mx炉腹径1.7mx高さ8.4mの円柱徳利状。
鉄鋼の産業発展物語 第8話 / 釜石から八幡へ
福沢諭吉も「文明論の概略」の中で「富国の基本は鉄」と提唱し、イギリス人技師を雇用し
技術面の指導を受けることになった。
岩倉具視視察団 大島高任
昼夜の作業に最も安全な地形を選び、小形高炉を5基、鉱石の運搬には軌道馬車を
採用することを提案した。
近代鉄道を使用して銑鉄と錬鉄を生産し、それを圧延する工場の建設を提案した。
イギリス式で官営釜石製鉄所を建設することが決定された。
しかし、木炭の不足や小川製炭場の火災などによってわずか90間で操業を中止した。
官営釜石製鐵所
更にコークス用石炭性状に関する技術上の問題があげられる。
この10月16日は釜石製鉄所の創立記念日となっている。
田中製鉄所 野呂景義
1857年に日本で初めての出銑に成功した。
種々のトラブルにより1883年に官営釜石製鐵所は廃止された。
この失敗の要因は『万事を外国人技師に一任し、そしてその技師は我国の資源
その他特有事情に対する科学的研究を欠き、自国技術を万能的に過大評価していた』と
『日本鉄鋼史』には記している。
大島高任が釜石に灯した技術を受継ぎ、『野呂景義』はコークスによる
近代製鉄技術を確立して八幡につなぎ、日本の鉄鋼技術の自立の道を開いた。
第9話の舞台は八幡へ移ります。