鉄鋼の産業発展物語 第8話 / 釜石から八幡へ
官営製鉄所建設の経緯
1871年から2年間、岩倉具視視察団が欧州を視察から強い刺激を受けて帰国し、
福沢諭吉も「文明論の概略」の中で「富国の基本は鉄」と提唱し、イギリス人技師を雇用し
技術面の指導を受けることになった。
福沢諭吉も「文明論の概略」の中で「富国の基本は鉄」と提唱し、イギリス人技師を雇用し
技術面の指導を受けることになった。
岩倉具視視察団 大島高任
日本初の洋式高炉をつくった『大島高任』が1974年に製鉄所建設案を発議し、
昼夜の作業に最も安全な地形を選び、小形高炉を5基、鉱石の運搬には軌道馬車を
採用することを提案した。
昼夜の作業に最も安全な地形を選び、小形高炉を5基、鉱石の運搬には軌道馬車を
採用することを提案した。
これに対してイギリス人技師は高能率の大型高炉2基と鉱石を運搬する蒸気機関車による
近代鉄道を使用して銑鉄と錬鉄を生産し、それを圧延する工場の建設を提案した。
近代鉄道を使用して銑鉄と錬鉄を生産し、それを圧延する工場の建設を提案した。
お互いに真っ向から議論したが、最終的にはイギリス人技師の案が認められて、
イギリス式で官営釜石製鉄所を建設することが決定された。
イギリス式で官営釜石製鉄所を建設することが決定された。
その後、大島高任は釜石を去り、秋田県小坂鉱山へ転勤となった。
官営釜石製鉄所創業
官営釜石製鉄所は、当時世界最新鋭のイギリス式高炉2基を始め、全ての設備を
イギリスから輸入、新たに招いた外国人技師の指導の基で建設され、
1880年に操業を開始した。
しかし、木炭の不足や小川製炭場の火災などによってわずか90間で操業を中止した。
官営釜石製鐵所
1882年に操業を再開するも、木炭の品質問題等で操業不能となり、
196日間で操業を休止する。
失敗の大きな要因は、外国人技師を始めとした技術者の経験不足と木炭の供給不足、
更にコークス用石炭性状に関する技術上の問題があげられる。
更にコークス用石炭性状に関する技術上の問題があげられる。
また、当時の鉄の民間需要が少なく生産コストが高くなり経済収支が成り立た
なかったことも要因である。そして翌年の1883年に官営釜石製鉄所が廃止となった。
釜石鉱山田中製鉄所 (後の釜石製鐵所)
1884年に田中長兵衛が製鉄所の一部設備の払下げを受け、製鉄事業への挑戦が始まる。
そして、日本人自らの手で試行錯誤を繰り返しながら1886年10月16日に
49回目の挑戦で、製鉄所として初めての出銑に成功した。
この10月16日は釜石製鉄所の創立記念日となっている。
田中製鉄所 野呂景義
1887年には全ての製鉄所設備の払下げを受け、釜石鉱山田中製鉄所が設立した。
そして田中は、大型高炉の欠陥を指摘した『野呂景義』を顧問として迎え、
大型高炉に技術的改良を加え、コークス炉を整備して、1894年に日本で初めて
コークス炉を使った製鉄法に成功した。そして、現在の釜石製鉄所へとつながる。
釜石から八幡へ
『大島高任』が、自ら翻訳した西欧の技術書を基に、釜石に洋式高炉を建設し、
1857年に日本で初めての出銑に成功した。
1857年に日本で初めての出銑に成功した。
その後、イギリスの技術を全面的に導入し、1880年に官営釜石製鉄所が操業したが、
種々のトラブルにより1883年に官営釜石製鐵所は廃止された。
種々のトラブルにより1883年に官営釜石製鐵所は廃止された。
この失敗の要因は『万事を外国人技師に一任し、そしてその技師は我国の資源
その他特有事情に対する科学的研究を欠き、自国技術を万能的に過大評価していた』と
『日本鉄鋼史』には記している。
大島高任が釜石に灯した技術を受継ぎ、『野呂景義』はコークスによる
近代製鉄技術を確立して八幡につなぎ、日本の鉄鋼技術の自立の道を開いた。
第9話の舞台は八幡へ移ります。