鉄鋼の産業発展物語 第7話 / 高見神社物語
明治神宮の兄貴分となる高見神社
高見神社の由来は3世紀の時代に遡る。神功皇后が仲哀天皇を崩御の後、熊襲・朝鮮平定に
あたり、皇后みずから御祖神十二柱を祀ったのが創始といわれ、近郷高見神社の本宮でもある。
あたり、皇后みずから御祖神十二柱を祀ったのが創始といわれ、近郷高見神社の本宮でもある。
創始時代は洞海湾岸の大字尾倉字高見(現在の八幡泊地近く)の小高い丘陵、
高見山と呼ばれる場所にあった。
高見山と呼ばれる場所にあった。
高見神社の移設
1897年(明治30年)に八幡村に官営製鐵所を建設することが決まった。
高見山に長官・技監を筆頭とする高等官の官舎や貯水池を設置することになったため、
高見神社は移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮(千草ホテルの近く)に
仮住まいすることになった。
高見神社は移設を余儀なくされ、製鉄所建設時に豊山八幡宮(千草ホテルの近く)に
仮住まいすることになった。
操業開始から5年後の1906年(明治39年)に第一次拡張計画が議会で承認されると、高見山に
建設された高等官の官舎も、構外に移ることになった。
現在地の大蔵槻田地区に高等官・判任官用の官舎と職工用の宿舎である職工長屋が建設された。
1911年(明治44年)ごろに、高等官用官舎26棟26戸、判任官用の官舎29棟58戸、
工長屋230棟1100戸と今でいうニュータウンが開発された。
工長屋230棟1100戸と今でいうニュータウンが開発された。
山手側に建ち並んだ高等官・判任官用の官舎の一体を高見と呼び、構内からの地名を引き継いだ。
職工長屋の一帯は一条町~六条町と名付けられた。
高見神社の建設
官営八幡製鐵所が操業した当初から高見神社は製鐵所の守護神とされ、それに相応しい地に造営
したいという思いが製鐵所関係者の間に強くあった。
したいという思いが製鐵所関係者の間に強くあった。
民間会社の日本製鐵となった1934年(昭和9年)時に新しい神社を造営することを決定し、
設計を内務省神社局の角南隆技師に依頼した。
設計を内務省神社局の角南隆技師に依頼した。
角南技師は、春日造、住吉造、大島造、大社造といった古い時代感覚の模倣を一歩も出ない建築家に
不満を持っており、昭和に時代を象徴するような神社建築を後世に残したいという思いで、
新様式の神社設計に取かかった。
そして近代遺産の観点からも評価できる高見神社が1936年(昭和11年)に完成し、
37年の仮住まいを経て現在の地に永住の地を定めるとともに、
地域の神様の枠を超え、製鐵所の守護神へと大きく性格を変えていった。
不満を持っており、昭和に時代を象徴するような神社建築を後世に残したいという思いで、
新様式の神社設計に取かかった。
そして近代遺産の観点からも評価できる高見神社が1936年(昭和11年)に完成し、
37年の仮住まいを経て現在の地に永住の地を定めるとともに、
地域の神様の枠を超え、製鐵所の守護神へと大きく性格を変えていった。
明治神宮と高見神社は兄弟
角南隆技師は、1920年(大正9年)に完成した明治神宮の設計を伊藤忠太教授の助手として参画した。
その後高見神社の設計を行い1936年(昭和11年)に完成させた。当時は明治神宮が高見神社の
兄貴分であった。
その後高見神社の設計を行い1936年(昭和11年)に完成させた。当時は明治神宮が高見神社の
兄貴分であった。
明治神宮 |
高見神社 |
明治神宮は、1945年(昭和20年)に戦災で焼失したため、再び角南隆技師設計し、角南流の新しい
社殿を1958年(昭和33年)に完成させた。
社殿を1958年(昭和33年)に完成させた。
そして、今度は高見神社が明治神宮の兄貴分となった。
高見神社と明治神宮の双方を参拝する機会があるときは、是非とも兄弟の類似性という観点からも
ご覧ください。
ご覧ください。
全国でも珍しい御祖神十九柱
神功皇后が創始された時は御祖神十二柱を祀られた。
その後、七柱が加えられ合計「十九柱」の御祖神が祀られおり、これほど多くの御祖神が
祀られているのは全国的にも珍しい神社である。