佐賀の反射炉 / 日本の産業革命の始まり
次第に外国船が来航し、日本との交易を求めてきたが、幕府はそれを断り続けた。
| 最初に行動を起こしたのが、長崎の警備を担当する佐賀藩の鍋島直正。 1847年に幕府に海防の必要性を献策するも、その提案は却下された。 そのため、佐賀藩は独自で動いた。 それが大砲をつくるための反射炉をつくることであった。 しかしヨーロッパに対して300年も技術が遅れている日本が、外国の技術者を 招聘することの叶わない時代でもあった。 |
大連航路上屋 & 世界遺産
私の母も祖父母も、きっとここから満州に旅立った。

この地を訪れて思いました。
戦争の歴史は伝えるべき重要な事柄だと思います。
なぜ、世界遺産/明治日本の産業革命遺産で戦争を伝えなければならないのか。
下記の出来事を世界中に人々に伝えることです。

戦争と共に発達してきた産業、戦後復興を原動力につくり上げた世界一の工業立国日本。
北九州で展開された「世界遺産物語」を紹介していきます。
世界遺産物語 直方駅
日本の産業発展のために頑張ってきた直方駅
1891年に筑豊興業鉄道の若松~直方が開業、1899年には本格的に石炭輸送拠点駅とするため、
拡張が開始された。

そして、日本の産業ためになくてはならない筑豊からの石炭運び続けた。

第二次世界大戦後はエネルギー革命によって石炭の出荷量が減少するようになった。
そして1958年からは筑豊地区からの石炭輸送が減少に転じ、直方駅の作業も縮小していき、
1984年に貨物輸送駅としての幕を閉じる。
沼田尚徳 / 製鉄発展の礎を築いた男
製鉄所のみならず北九州工業地帯の基盤となる土木工事を次々と成功に導いた。
水戸藩の沼田家
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。
青年時代
1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。
官営八幡製鐵所に入社
官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。

1901年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が
操業を開始する。
最初の挫折
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
渾身の大事業、河内貯水池
「土木は悠久の記念碑」8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。
英知と情熱を注いていく。
山村留学も受入れている教育先進地域。
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。
設計で土木構造物への新しい挑戦をした。更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、
将来市民の憩いの場所をすべく、橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。
恩返しでもあった。
死者も出さなかった。
●独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ当時コンクリートは高価の為、
粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で亀裂を防止した。
工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。

使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて美観に
優れたダムを作り上げた。
●河内貯水池にかかる橋
それぞれの場所の景観に合わせて作った橋をつくっている。

その代表的なものが、日本で唯一残るレンティキュラー・トラス橋(レンズ型のトラス橋)の南河内橋である。
この形と色が実に自然と調和し、鉄の街八幡のシンボルとなっている。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。

河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学
製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では土木部長でありながら
製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。
遠 想
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。
田中熊吉 「高炉の神様」
人生の幕を閉じる。
紹介していきますのでお楽しみにしておいてください。
清虚
九州の最北端の部崎は航海の難所で多くの人が遭難していました。
大分県国見町の旅僧「清虚」は高野山に行く途中、これを知り青浜に降り、この難所から人を救おうと
燈明台を建て、日中は托鉢をしながら夜は火を焚き続けた。

雨の日も風の日も休むことなく13年間焚き続け74歳で村人に見守られて世を去りました。
このあとも村人に引き継がれて、明治5年の部埼灯台(洋式灯台)ができるまで続けられた。
海辺には清虚の大きな像が1972年に建てられいまも海を見守っています。











