9月17日 山陰方面の視察
新しいツアー造成のために山陰方面の視察を行いました
・日程 9月17日(土) 8:00〜20:00
・天候 朝から夕方まで晴れ、その後雨
・走行距離:400km 山陰の海岸線と中国自動車道間をジグザグに走行し
・走行時間:10時間
角島大橋
・視察した場所
川棚、豊北、角島、湯谷、楊貴妃の里、龍宮の潮吹、千畳敷、仙崎、青海島
長門湯本、美祢、小月、菊川、大河内、下関
日本人のお客さんだけでなく、外国のお客さんにも感動してもらえる様々なものを
発見することができました。
新日鐵時代の実体験で伝える世界遺産❗
新日鐵時代の実体験で伝える世界遺産❗
『日本の急速な産業発展』
ドイツのGHH社から技術を導入し、1901年に操業を開始した官営八幡製鐵所。
その後、世界に追いつくために、独自の技術開発により急速に発展し、現在では世界一の
工場国となった日本。
私は、主要設備である高炉の設計から建設に携ってきた。
1970年代には世界の技術レベルに追いつき、海外への設備の輸出も始まった。
1995年からわたし自身の本格的な海外での仕事が始まった。
1997年には、官営八幡製鐵所建設時は先生であったGHHと南アフリカで肩を並べて仕事をした。
その時、ヨーロッパの技術レベルを追い越し、世界一になっていることを実感した瞬間だった。
ドイツのGHHも短期間の内に日本の追い越されたとびっくりさせた出来事であったと思う。
その後、世界各地で、製鉄所のプラント建設に携ってきた。
まさに、ユネスコが言っている『日本の急速な産業発展』の真っただ中で、歯車の一部として
仕事をしてきた。
2008年に早期退職し、北九州や九州の紹介する旅行会社を設立した。
今回の世界遺産登録を機に、前職での経験も織り込みながら北九州で行われた
『急速な産業発展』を紹介していきます。
日本の戦後の危機を救ったのは八幡製鐵所!
明治日本の産業革命遺産の裏側に秘められた実話。
日本の戦後の危機を救ったのは八幡製鐵所!
昭和20年に全国で12基の高炉が稼働していた。
しかし、戦争の被害や原燃料の欠乏によって、八幡の高炉3基がかろうじて生き残った。
また、八幡も同様に原料炭不足に陥り、操業停止に直面する。
その時危機を救うべく急遽立ち上がったのが従業員、自ら筑豊炭鉱に行って石炭を掘った。
こうした懸命の努力をあり、なんとか生き残った3基の高炉の操業を維持し、
日本の戦後復興につなげて行った。
このような努力がなければ、日本の急速な復興や世界遺産登録もあり得なかった。
また当時炭鉱に行って犠牲になられた方もおられることも忘れてはならない。
明治日本の産業革命遺産 / 明治専門学校
日本の産業発展に、理想的な工業技術者の育成を目的として、安川敬一郎と松本健次郎親子が
1909年(明治42年)設立した。
初代総裁に山川健次郎を迎え、「技術に堪能なる士君子」の養成を掲げた。
これを機に、北九州で多くの会社が誕生し、日本の産業がこの地北九州で急速に発展していった。
1949年(昭和24年)現在の九州工業大学となり現在に至る。
明治専門学校が、産業発展に大きく寄与しており、世界遺産登録の一つの功績となっていると
言っても過言ではない。
明治日本の産業革命遺産/集成館事業
明治日本の産業革命は鹿児島から始まった。
1840年からのアヘン戦争でイギリスが中国を占領する、それと同時期に琉球に
多くの外国船が入ってくるようになった。
そこで日本の危機を感じたのが薩摩藩に島津斉彬。
NPO法人 九州・山口産業遺産協議会では、明治日本の産業革命遺産を
世界遺産の謎に迫る / 官営製鐵所がなぜ八幡に立地
第一候補地は門司の大里だった!
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
総予算額650万円、その中に清国から受け取った賠償金のうち58万円が含まれる。
大里(門司区)、板櫃(小倉北区)、八幡(八幡東区)、大牟田、長崎
お互いに一歩もゆずらなかった。
②海上・陸上の交通の便がよいところ③原料と燃料が得やすいところ。
呉 大 里 八 幡
出入りさせることができないと、一旦は「大里第一」とした。
八幡が足元に及ばない人口を抱えていた。
起死回生の政治工作を行う。
長官和田維四郎を通じて、大島と長官山内堤雲の説得を依頼した。
八幡出張の辞令が出された。
安川敬一郎 芳賀種義
村民を説得し、100万m2もの広大な土地を地価の半値で売り払うことに協力した。
公布された。
そして、1901年に東田第一高炉が火入し、日本の近代製鉄の幕が開いた。
八幡に製鉄所を立地に決定的な役割を果たした。
お問合せ (日本語又は英語で対応します)
ジャパン九州ツーリスト(株) 福岡県知事登録旅行業 第3-688号
電話 093-521-8897 FAX 093-521-8898 Email info@japan-kyushu-tourist.com 〒802-0001 福岡県北九州市小倉北区浅野3-8-1 AIMビル6階 |
世界遺産の謎に迫る/日清戦争以前の製鉄所建設構想
製鉄所建設のきっかけを作った 清国(中国)の漢陽製鉄所。
その中に技術者として「野呂景義」も参加した。
*失脚した、野呂景義はその後、官営八幡製鐵所立ち上げに大きく貢献する。
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世界遺産の謎に迫る/製鐵所操業開始までの紆余曲折
製鐵所建設の「創立案」の予算が承認された。
中心的な役割を果たす。
製鉄所建設構想を作り上げた「野呂景義」が考えられるが、初代長官の山内が、
「大島道太郎」を任命した。
大島道太郎は、近代製鉄の父・大島高任の長男。
そしてドイツ人技師を雇い入れて指導を仰ぐ。
二瀬炭鉱を買収し、原料供給上の基礎を開いた。
製鐵所の操業が開始させた。
和田維四郎は日本鉄鋼協会から「故製鉄功労者」9名の中の1人として表彰された。
①製鐵所構想案を拡充する「設立案」の策定
②外国人技師・職工長の雇入れ
③原料の確保
④建設工事の推進と作業開始式挙行
⑤販売などの運営方針策定
試行錯誤で日々が苦労の連続。
財政難に陥った。
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世界遺産の謎に迫る/八幡製鉄所立ち上げ時の苦難
・製鉄所建設前に失脚した、野呂景義が呼び出される。
羽口の閉塞などで3日間休風(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、
銑鉄の品質は概して粗悪であった。
急遽、野呂景義が呼び出される
送風停止が原因であると指摘。
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の改善を行った。
という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術やコークス炉の改良が相まって
積極的な改善が進められた。
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と操業指導が
必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な限り改良がおこなわれた。
2140日に亘って出銑を続けた。
八幡製鐵所創業の意義
貢献することになった。
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける
原動力となっている。
野呂景義の功績 前職が新日鐵の高炉設備エンジニアとして解説します。
原因や改善策は、今日の設備設計や操業技術の重要な基礎となっています。
現場で自ら培った技術によるものであると思います。
不調の高炉に、このような抜本的な改善を施した。
そしてその後の順調に操業を進め、今日の八幡製鉄所の基礎を築いたことは、
恐るべき功績であると思います。
その陰には、絶え間ない日々の努力があったものと考えます。
製鉄の業起こらざれば万業振るわず。
【遺産の裏側に隠された物語】
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北九州市誕生の歴史
なぜそれらが一つになり北九州市ができたのか?
その訳は古墳時代までさかのぼる。
●古墳時代
北九州市は九州の最北端に位置し、海と山に囲まれ、河川の廻りに平野が広がり人類の
生活の場として適した場所であり、旧石器時代の遺跡が市内で45ヶ所で見つかっています。
(小倉南区27ヶ所、八幡西区9ヶ所、若松区3ヶ所、小倉北区と八幡東区で各2ヶ所)
篠崎八幡神社の境内で発見された篠崎古墳
江戸時代に入ると、豊前の国と筑前の国の二つに分かれ、各国に多くのお城が作られる。
豊前が35城、筑前が15城と合わせて50の城が存在した。
このことは、人々が生活する最適の場所であり、本州と九州を結ぶ要の場所でもあったから
だといえる。
小倉城 門司城跡 黒崎城跡
1615年の一国一城令以降は多くの城は壊され、豊前が小倉城、筑前が福岡城となった。
細川忠興が中津城から小倉城に移った理由は、小倉が地理的にも重要な位置に
あったからだと言える。又黒崎は長崎街道の筑前六宿最大の宿駅として繁栄する。
この時代に豊前と筑前を中心とするそれぞれの文化が各地域で育まれた。
明治に入り、1989年(明治22年)に大日本帝国憲法が発布され、各地で合併が行われ新しい
村や町が出来る。
小倉町、門司村、田ノ浦村、小森江村、戸畑村、若松村、石峰村、江川村、洞北村、八幡村、
黒崎村、木屋瀬村 他
1989年に、門司港が特別輸出港に指定され、日本の産業近代化の歴史が始まる。
1891年(明治24年)には九州鉄道(門司~高瀬間)が開通する。
1898年(明治31年)には石炭の積出港として若松港が開港し、1901年(明治34年)に
日本で初の銑鋼一貫製鉄所・官営八幡製鐵所が操業を開始する。
●5市の誕生
そんな産業発展に伴い、村が町に変わり、そしてそれから5つの市が生まれる。
この限られた地域で次々を市が誕生することは全国的にも非常にまれなことである。
【推 移】
・1899年(明治32年) 特別輸出港に指定された門司
・1900年(明治33年) 人口が最も多く、軍事都市としての役割を果たす小倉
・1914年(大正3年) 石炭の積出港として繁栄した若松
・1917年(大正6年) 製鉄所が誕生した八幡
・1924年(大正13年) 地場資本の安川家が若松から移った戸畑
●北九州市の誕生
それから5市が連接し一大都市圏を形成し、共通した交通インフラを持ちながらも、それぞれ異なった
都市構造や行政サービスとなっていた。
北九州と言う言葉は、鉄道が門司から八幡までまたがっており、更に戸畑、黒崎、
折尾まで延びるにつれ空間的な呼び名が必要となり、応募により『北九州』となった。
あるこの地に多くの人々が集まり、各地でそれぞれの文化が育まれて来た。