河内貯水池建設物語
河内貯水池の裏側に秘めら物語
河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として
1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で1927年(昭和2年)に
完成した。
その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳、当時は東洋最大級のダムで、
「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と情熱を
注いだ大事業。
河内貯水池は近代化産業遺産としての価値だけでなく、北九州国定公園の自然と調和した、
心和む場所。
紹介します。
水戸藩の沼田家
藩幹部の筆頭書記官で祖父沼田久次郎を持ち、そして祖父とともに「大発勢」と呼ばれる
討伐隊に加わり、明治維新後は教育者の道を歩んだ沼田順三郎の長男として生まれた。
青年時代
1897年(明治30年)に入学し土木技術や鉄筋コンクリート技術学び、更に水道施設や
琵琶湖疏水などの技術にも関心を持っていたと言われている。
官営八幡製鐵所に入社
官営八幡製鐵所に土木技師として入社した。
1901年(明治34年)に東田第一高炉に火が入り、日本で初めての銑鋼一貫製鐵所が
操業を開始する。
最初の挫折
製鉄所や付近の住宅地域に多大な被害を及ぼし住民1名の尊い命を奪う大惨事を引き起こした。
心の痛手となり、その後この教訓から、建設現場を自らの足で歩き自分の目で確認する
現場第一主義の仕事スタイルを育んでゆく。
8年の歳月をかけて1927年(昭和2年)に完成した。
英知と情熱を注いていく。
かつての河内地域は、八幡製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす
自然豊かで平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域。
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。
用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。
更に環境にも優しい工法を積極的に採用し、将来市民の憩いの場所をすべく、
橋から取水塔、管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。
村人へ何としても恩返しでもあった。
建設期間中1名の死者も出さなかった。
80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの人達の
親しまれている。
美観に優れたダムを作り上げた。
●悲しみを乗り越えて
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。
河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
【漢文】
愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、
素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと断腸の思い。
【英 文】
THROUGH WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING
I HAVE ENABLED TO CONSTRACT KAWACHI WATER WORKS.
花も植えられている。
企業利益より社会貢献 沼田尚徳の美学
製鉄所と八幡市の発展の礎を築いき、勲三等瑞宝章まで授与され、製鉄所では土木部長でありながら
製鉄所長官に次ぐ処遇を受けていた。
日本最大の軍事工場であった小倉陸軍造兵廠の土木関連業務も手がけたが、
1934年(昭和9年)に全ての職を辞し田舎に陰棲した。
遠 想
潤し続ける河内貯水池の姿、そして彼が残した礎の上にいつまでも成長を続ける
日本の未来だったのではなかろうか。
本投稿は、西日本ペットボトルリサイクルの千々木亨氏の論文 鉄都に生きる男たちから
引用させてもらいました。