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産業観光 / 八幡製鉄所 戸畑4高炉

新日鐵住金㈱ 八幡製鉄所
産業観光でご案内するところは、高炉工場と熱延工場。
 
ここでは、高炉工場の主要設備である戸畑4高炉を紹介します。

1972年に操業を開始し、2014年1月~4月に3回目に改修工事が行われました。
そして、大型化し、最新鋭の技術を導入して新しく生まれ変わり、4月20日に再稼働しました。
高炉は鉄鉱石をコークスで還元・溶融して銑鉄を作る設備で、製鉄所のシンボル的存在です。
 
今回は新しく生まれ変わった工場を見学することができます。
そして、目の前で真っ赤に溶けた銑鉄が流れてくる様子を是非ご覧ください。

高炉は製鉄所のシンボルです

産業観光 / 八幡製鉄所では何をつくっている?

新日鐵住金㈱ 八幡製鐵所では何をつくっているでしょうか。

鉄づくりの最初の原料はこんなものです。
鉄源となる鉄鉱石、熱源及び還元材のコークス、副原料の石灰等

    


様々な行程を経て、こんな製品をつくっています。
  
 自動車用鋼板           ブリキ          スパイラル鋼管      鉄道のレール


   
              電磁鋼板         ステンレス鋼板

北九州の産業観光 / 新日鐵住金 八幡製鉄所

1901年に操業を開始した銑鋼一貫製鉄所で、日本の産業近代化に貢献した企業で、
粗鋼生産高は現在世界第2位。 

最終製品は自動車鋼板、ジュース缶、食缶用ブリキ、建設用スパイラル鋼管
新幹線や列車にレール、変圧器などに使われる電磁鋼板、ステンレス厚板

  
 

粗鋼生産高世界第6位の新日本製鐵と第26位の住友金属工業が平成24年(2012年)
10月に合併し、世界第4位の粗鋼生産高を誇る、新日鐵住金㈱が誕生しました。

その旧新日本製鐡は明治34年(1901年)創業した官営八幡製鐵所が母体となっています。
日清戦争を契機に製鉄所の建設を目指した明治政府は建設候補地を最終的に広島と
八幡をあげ、鉄づくりに必要な石炭の産地・筑豊炭田、豊富は水資源、気象条件や労働力等の理由で八幡が選ばれました。
官営八幡製鐵所の東田第一高炉の火入れは明治34年(1901年)2月5日で、昭和に入ると世界恐慌による鉄鋼不況で製鋼会社の合同が進められ、官営八幡製鐵所は1934年釜石鉱山(株)、三菱製鐵(株)、輪西製鐵(株)、富士製鋼(株)、九州製鋼(株)と合体し日本製鐵(株)八幡製鐵所となりました。

戦後、昭和25年(1950年)過度経済力集中排除法により日本製鐵(株)は4社に分割され、八幡製鐵所は八幡製鐵(株)となりました。

八幡製鐵(株)は鉄鉱石専用船の港と高炉、製鋼工場を一カ所に集めた戸畑製造所を建設しまし、昭和33年(1958年)に戸畑製造所を発足し、昭和34年(1959年)に戸畑第一高炉に火入れしました。
この、原料専用船が着岸する岸壁、高炉、製鋼・分塊・圧延工場そして製品出荷岸壁を一直線上にレイアウトし、工程管理・生産効率の向上を図った仕様は、日本・海外鉄鋼各社の臨海製鐵所建設の
モデルになりました。
 
昭和42年(1967年)には日本初の連続鋳造設備を導入し、八幡製鐵(株)の鉄づくりは高度経済成長期に黄金時代を迎えました。

国際競争力を高めるため八幡製鐵(株)と富士製鐵(株)の大型合併、新日本製鐵(株)が
昭和45年(1970年)に誕生しました。
以後新日本製鐵(株)は、世界市場で評価を受ける高品質の製鉄事業を行う一方、オイルショックや鉄冷えと呼ばれた鉄鋼合理化、円高不況のなかで昭和60年代からエレクトロニクス・情報通信事業やバイオテクノロジー事業などへ参入し複合経営路線へ転換しました。その代表が平成2年(1990年)に八幡の東田地区にオープンしたアミューズメントパーク・スペースワールドです。

北九州の産業観光 / ニッカウヰスキー

ニッカウヰスキー株式会社

鈴木商店が大正3年に設立した大里酒精製造所が始まり。
現在、約20種類の焼酎原酒を製造しています。
「かのか(麦・米・芋)」以外にも、麦焼酎の「玄海」「綺羅麦」「穂の舞」、米焼酎の
「大地の穣」、そば焼酎の「玄庵」、芋麦ブレンド焼酎の「とんぼの昼寝」、
泡盛の「うみそら」
 
  
大正3年(1914年)の創立以来、一貫して焼酎(かのか・大五郎・玄海など)を中心に
製造している、レンガ造りが特徴の工場です。
麦や米、そばを原料として焼酎の醸造、蒸留、精製、貯蔵・熟成、ブレンド、充填と製造
にかかる全ての工程を一貫して行う、日本でも有数の規模の焼酎工場です。

北九州の産業観光 / 関門製糖

関門製糖株式会社
門司の地で砂糖をつくり続けて100年の伝統企業です。

明治37年に設立さて、鈴木商店の飛躍の原動力となりました。

  

ばら印とスズラン印の砂糖を製造する関門製糖(株)の前身は、明治37年(1904年)
鈴木商店が門司に創業した大里精糖所です。
門司が選ばれたのは原料糖(甘しょ)と石炭の調達、船舶と工業用水の確保が便利だったことが
主な理由でした。
 
明治40年(1907年)大里精糖所は売却され、大日本製糖(株)門司工場となりました。
その後、西日本製糖(株)と社名が変わり、さらに平成13年(2001年)には日本甜菜製糖(株)と
大日本明治製糖(株)(大日本製糖(株)と明治製糖(株)の合併会社)の砂糖製造を行う
生産受託会社となり、社名が関門製糖(株)になりました。

関門海峡を望む工場で砂糖を作り続けて108年、いまも現役の赤レンガ倉庫(建築年不詳)が
歴史を伝えています。

近代化産業遺産 / 河内貯水池

自然と調和した、第一級の近代化産業遺産 河内貯水池 

                     土木技師・沼田尚徳の大偉業

河内貯水池は、八幡製鐵所の第三次拡張工事での水源地拡張対策の一環として
1919年(大正8年)に竣工し、8年の歳月をかけて、延90万人の人々の手で
1927年(昭和2年)に完成した。

その総指揮者が、土木技師の沼田尚徳
当時は東洋最大級のダムで、
「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパの土木哲学を具現化すべく英知と
情熱を注いだ大事業。

河内貯水池は近代化産業遺産としての価値だけでなく、
北九州国定公園の自然と調和した、心和む河内貯水池へ是非お越しください。
この美しい景観の裏側に秘められた、「愛と情熱」の物語がここにあります。

    

かつての河内地域は、製鐵所から南10㎞ほど谷あいの31戸が暮らす自然豊かで
平穏な農村、また都市の児童の山村留学も受入れている教育先進地域。

     
その人達に立退きを快く応じてもらい、当時西日本最大の大事業が始まる。

ダムには当時最新の土木技術をふんだんに用い、一方で現場の石材や自社鋼材を
用いた独自の設計で土木構造物への新しい挑戦をした。更に環境にも優しい
工法を積極的に採用し、将来市民の憩いの場所をすべく、橋から取水塔、
管理事務所に至るまで欧米風の洒落たデザインを凝らした。

  
このことは、先祖代々の土地と故郷の美しい自然を提供し、建設に協力を
惜しまぬ村人へ何としても恩返しでもあった。
安全管理でも最新の配慮がなされ、当時の西日本最大級の難工事にも関わらず
8年の建設期間中1名の死者も出さなかった。
80年経過した今でも給水の本来の機能を果たしながら、憩いの場として多くの
人達の親しまれている。


●独特の英知を凝らして作った堰堤 ヨーロッパの古城をイメージ
当時コンクリートは高価の為、粗石を混ぜて使用、銅板を内部に入れた伸縮継手で亀裂を防止した。
  
工事段階での型枠代わりに石壁をつくり、ダム完成の耐久性を確保。
  
使用した切石は12万個、加工時発生した小さな石も、付帯建築物に張付けて
美観に優れたダムを作り上げた。


悲しみを乗り越えて

建設中、沼田尚徳は現場では明るく振る舞っていたが、数々の悲しみを心に
押し潜めていた。
山の神はこの大事業と引き換えにかけがえのない家族を貢ように強いていた
ようでもあった。
父そして5人の子供を次々と亡くした。そんな中明るく支えてくれたのが妻泰子。
しかし、最愛の妻もダムの完成を待たずして猩紅熱でこの世を去ってしまった。
    
その後母も亡くなり、家族をダムが人柱として飲み込んでしまったような
悲劇であった。

河内貯水池完成の翌年に、白山宮の参道に隣接した土地を自費で購入し、
妻泰子への感謝と哀悼の想いをこめて妻恋の碑を建てた。
  

碑の両面には、漢文と英文でその思いが刻まれている。
 
  漢 文(河内貯水池側)         英 文(神社側)
【漢文】

愛する妻の魂はどこにあるのか。麗しきあの人と今は世を隔て、
素晴らしき日々は夢に帰してしまった。散り行く桜の前にたたずむと
断腸の思い。
【英 文】
IN MY MEMORY OF MY LATE BELOVED WIFE MRS. YASUKO NUMATA THROUGH 
WHOSE SELF-SACRIFICE AND UNDER GOD’S BLESSING I HAVE ENABLED TO 
CONSTRACT KAWACHI WATER WORKS.
 
この神社は今でも地元の人達によって清掃され、更に泰子さんの為にと花も
植えられている。


河内貯水池にかかる橋

自然との調和をコンセプトにし、当時の技術を結晶し、創意工夫して設計で、
それぞれの場所の景観に合わせて作った橋。
①太鼓橋
堰堤から眼下に見える、当時日本でも珍しい鉄筋コンクリートの橋、
  
スパン28m、最少厚さ20cmの薄っぺらい板の橋、スパン/最少厚の比が
140という世界的にも類の無い橋。80年経った今でもヒビ一つも入っていない
沼田尚徳の傑作品。

②北河内橋
一見すると鉄筋コンクリートの橋に見えるが、実はやじろべ形状の鉄骨梁を
三つ並べ、コンクリートで覆った橋。
    
鉄で強度を持たせ、コンクリートで座屈や錆を防止した。

③中河内橋
鉄をつくり時の副産物・スラグからできた鉱滓煉瓦を使った、三連絡アーチ橋。
  
別名を眼鏡橋と言う。
 
④南河内橋
日本で唯一残るレンティキュラー・トラス橋(レンズ型のトラス橋)。
出張中に見た欧米にかかるこの橋をみてデザインした鉄骨の橋。
  
この形と色が実に自然と調和し、鉄の街八幡のシンボルとなっている。
全て八幡製鐵所の鋼材を使い、設計も全て自社で行った。


河内桜公園
春になると、桜の咲き誇る花見の名所です。堰堤の下流側に位置しています。
  
  桜公園の地図                  桜吊橋

  
  弁 室               亜字池(浄水場)


河内貯水池地図


旧大里製糖所 (関門製糖)

1904年(明治37年)、合名会社鈴木商店によって造られた大里精糖所の工場群。

199号線バイパスが造られる際、工場敷地を縦断する格好となったため、いくつかの建物が
壊されたのだが、工場に許可を得て入らなくてもその歴史ある重厚な雰囲気を享受できる。


1907
年(明治40年)大里精糖所は売却され、大日本製糖(株)門司工場となりました。

その後、西日本製糖(株)と社名が変わり、さらに2001年(平成13年)には日本甜菜製糖(株)と
大日本明治製糖(株)(大日本製糖(株)と明治製糖(株)の合併会社)の砂糖製造を行う
生産受託会社となり、社名が関門製糖(株)になりました。関門海峡を望む工場で砂糖を作り続けて
108年、いまも現役の赤煉瓦倉庫(建築年不詳)が歴史を伝えています。


●竣工時期
 1904年(明治37年)

●構造
 煉瓦造4階建他

●所在地
 門司区大里本町1-2-1

●建築主/設計者/施工業者

 鈴木商店/不詳/前田組