門司の歴史を知れば、その魅力が見えてくる
門司の歴史を知れば、その魅力が見えてくる
1995年にオープンした門司レトロには、多くの人が訪れているが滞在時間が短く、宿泊する人も少ない。
また当時繁栄していた商店街や下町を訪れる人は少ない。
なぜだろう? 多分それは、観光客にとっては、単なるレトロ建物や町並としてしか
見えていないのではなかろうか?
そこで、関門海峡について、門司についての改めて考えてみました。
簡単な歴史を書いてみたら、その魅力が見えてきました。
人々が行き来する海峡は世界史の中でも重要な場所。
関門海峡は日本史の中で重要な場所。
昔から海峡の交通拠点として船で陸と陸をつなぎ、渡航のため足をとめ、海外の玄関口として栄え、
時には格好の砦となり闘争の場所にもなってきた。
明治に入り、近代化が始まり、港作りが始まった。1889年に門司港が開港し、石炭・米・麦・硫黄・麦粉の
特別輸出港に指定され貿易の起点となる。
1891年に九州鉄道の門司~遠賀が開通し、石炭の積出港となる。ごんぞうが活躍する。
富国強兵で多くの鉄が必要で、製鉄所建設の候補として最後まで残ったのが、呉と北九州の大里、
板櫃そして八幡。
鉄鉱石が近くで採れと説もあり大里が最有力候補だったが、広大な土地を提供することになった八幡の地に決定した。
製鉄所は建設されなかったが、戦争や国際貿易の重要な起点である門司港に、多くの銀行、会社が興され、支店が置かれ、工場が設けられわずか30年の間に急速な発展を成し遂げたまちは全国的にも珍しい。
そして長年の人々の念願だった関門鉄道トンネルが1942年。
戦争の為の重要な拠点であった門司だが、1944年の度重なる空襲や関門海峡に5000発近い感応機雷が
投下され爆撃された沈没船が多く、海峡は完全に封鎖され、5年間活動休止の状態だった。
そして、関門国道トンネルが1958年、関門橋が1973年に開通し、門司港の姿が大きく変わってきた。
そして、かつて貿易港として栄華を誇ったロマンの地・門司を1995年に観光地・門司港レトロとして
グランドオープンした。
世界的に見ても、海峡のまちはどこも魅力的で、それを語る歴史がある、そして物語がある。
関門海峡がある門司にも、歴史がある、物語がある、そして先人たちの人間ドラマがある。
この地には昔から多くの人々が住みつき、産業が発達したのも魅力的なまちだからである。
私が感じている門司の魅力をもっと多くの人に紹介したいと思います。
環境未来都市・北九州市
北九州市は産業観光や環境関連の学びにおいて、最適の都市です。
その環境未来都市・北九州市を紹介します。
1.環境未来都市・北九州市
日本の産業が始まったまち、公害を克服しながら、日本の産業を支え、
世界の環境づくりを牽引する環境モデル都市北九州市。
北九州市は九州の北端に位置し、人口96万9千人(2013年5月の推計人口)、面積約490平方キロの政令指定都市です。
港町として繁栄した門司市、軍都としての歴史を持つ小倉市、石炭の積出港として賑わった若松市、
そして鉄鋼を中心として日本の産業近代化を支えた八幡市と戸畑市が1963年、世界でもまれな
五市の対等合併により誕生しました。
経済の基礎には鉄鋼、化学、金属といった重化学工業があり、市内総生産に占める製造業の比率が他都市に比べて高い、
ものづくりのまちです。門司及び若松の築港から始まり、1901年に官営八幡製鐵所が誕生して以来、様々なものづくりの
産業も生まれて、日本の産業発展を支え、アジアと地方への玄関口にもなりました。
1960年代には深刻な公害問題を経験しましたが、それを産学官の協力のもと見事に克服しました。その過程で蓄積した
技術をとノウハウ、人材、市民と産学官のネットワークを生かしながら環境に関する新技術の創出や開発を続け、
エコタウン事業に代表されるリサイクル・新エネルギー分野など、環境ビジネスに発展しています。
2008年に「環境モデル都市」に認定され、2011年には「環境未来都市」や経済協力開発機構(OECD)から
「グリーン成長モデル都市」に選定されるなど世界の環境をリードする役目を担っています。
2.環境の歴史
国内最悪の大気汚染と死の海と化した洞海湾から
婦人会をはじめとする市民運動を発端に公害から脱し、青空を取り戻した。
かつて「公害の街」として知られていた北九州市は、その克服の過程で蓄積された経験やノウハウを環境国際協力に活用、
今や日本の循環型社会づくりの実践者としての牽引役を果たしています。
1901年の官営八幡製鉄所の立地から工業都市として発展し、重化学工業を中心に、日本の近代化・高度経済成長の
牽引役を果たしてきました。
当時、製鉄所から盛んに昇る煙は、「七色の煙」といわれ、繁栄のシンボルとして旧・八幡市の歌にもうたわれていたほどでした。
しかし、産業の繁栄は一方で激しい公害をもたらし、当然のことながら、「七色の煙」は大気を汚染し、
降下煤塵の害をもたらしました。1960年代、北九州地域の大気汚染は国内最悪を記録し、さらに洞海湾は工場排水により
「死の海」と化しました。
この公害問題に最初に気づいたのは、市民で、既に1950年ごろから、「家の中がザラつく」「洗濯物が汚れる」といった
声が寄せられました。戸畑地区の婦人会は自ら調査に立ち上がり、議会、行政、企業に対し、公害対策を働きかけてきました。
1965年戸畑婦人協議会が製作した記録映画「青空がほしい」は、公害対策を求める市民運動を象徴するものでした。
市民の声に押され、行政も動き出し、大気汚染等の測定により公害の実態を把握しました。行政指導、立ち入り検査等により
企業へ改善を働きかけました。そして、各工場と公害防止協定を締結し、市、県、当時の通産局等と市内の企業約30社からなる
大気汚染防止連絡協議会を設立しました。企業側も、公害防止施設を整備するとともに、生産プロセスの改善を進めてきました。
この間、1968年には大気汚染防止法、騒音規制法が施行され、翌年の1969年には日本で初めてスモッグ警報が発令されました。
1970年にはいわゆる「公害国会」で公害関係14法案が可決し、全国的に、公害問題への社会的関心が高まる中で、
北九州市では、官民あげた取り組みにより、急速に環境改善が進んでいきました。
こうして、1980年ごろには、「七色の煙」に覆われた街に青空がよみがえりました。また、大腸菌も棲めない「死の海」と
言われた洞海湾には100種類以上の魚介類が、生息するようになっています。
1985年には経済協力開発機構(OECD)の環境白書で「灰色の街」から「緑の街」へ変貌を遂げた都市として紹介されました。
1987年には環境庁の「星空の街コンテスト」で、大気環境が良好な「星空の街」に選定されました。
これらの北九州市の取り組みは国際的にも高く評価されています。1990年には、国連環境計画(UNEP)の環境貢献を表彰する
「グローバル500賞」を日本の自治体としては初めて受賞しました。
1992年ブラジル・リオデジャネイロで開催された地球サミットでは、日本の自治体では唯一となる「国連地方自治体表彰」を
受けました。
更に、環境に対する取組が強化され、1993年にかん・びん分別収集を開始し、1998年には一般ごみ指定袋制度が開始されました。
北九州市ルネッサンス構想に基づく基盤整備が行われていた、新日鐵の遊休地・東田で、2001年に環境をテーマとする
「北九州博覧祭2001」が開催されました。そして、2003年に八幡東田グリーンビレッジ構想がスタートし、環境に対する取組が
更に進化していきました。
2008年には前述のように、全国で13自治体が選ばれた「環境モデル都市」に認定され、2010年には「アジア低炭素化センター」
を開設し、2011年には「環境未来都市」や経済協力開発機構(OECD)からアジア初の「グリーン成長モデル都市」に
選定されました。
そして、日本の産業が始まった北九州市で、世界の低炭素化社会実現に向けた牽引役としての新たな挑戦が始まりました。
3.未来に羽ばたく東田
日本の産業はここから始まり、そして未来のまちづくりもここから始まる!
1896年に国会で製鐵所設置が承認され、数ある候補地の中から八幡に決定されました。
そして、1901年に八幡東田の地で官営八幡製鐵所が産声を上げ、日本の本格的な産業の歴史の幕が開けました。
1972年に東田第一高炉が休止するまでの東田地区はものづくりの中心地として貢献してきました。高度経済成長後、生産効率向上や物流革新のため、主要製鉄設備が海沿いの戸畑地区に新設され、この広大な120ヘクタールの場所が遊休地となりました。
新日鐵は北九州市ルネッサンス構想に基づく基盤整備に1994年に着手し、道路や電気、水道、ガスなどを整備して企業誘致の
基盤を整えました。その街づくりは「パークコンプレックスシティ構想」として、職・住・学・遊が融合した進化した
コンプレックスシティを目指して、情報産業を中心にした企業を集積するエリアやマンションなどの居住エリア、
商業施設エリア等、120ヘクタールの土地をゾーンに分けて、それぞれの目的に応じた街づくりに取り組みました。
ゾーンを決める際に新たに設置されたのが、新駅(スペースワールド駅)や都市高速道路などのアクセスはもちろん、
開発エリアと周辺街区との調和を考慮しました。例えば、両エリアを分断していたJR鹿児島本線の線路を移設・直線化し
物理的にも開かれた場所を生み出しました。
次の転機が、2001年の「北九州博覧祭2001」で、近代産業の発展と環境破壊と修復を経験した北九州市は「環境」博覧祭の
主要テーマに揚げました。それを機に東田地区の開発発展に「環境共生」を主要コンセプトにして、2003年に「世界の環境都市」
を目指す街づくりの基本構想となる「八幡東田グリーンビレッジ構想」が策定されました。
「環境共生と低炭素型都市を目指す」というコンセプトの下、産学官民で協働して行われました。
この取組を支えるのがエネルギーの地産地消で、隣接する製鐵所のエネルギー基盤を活用し、LNGによる電力供給をスタート
(東田コジェネ)、電力は東田地区で利用し、蒸気熱は製鐵所で再利用することで低炭素・効率的なエネルギー利用を実現しました。
また、日本初の試みとして、店舗・住宅・集客施設などにパイプラインを設置し、製鐵所で発生する水素を供給し、エコファーム用の
燃料として供給する他、燃料電池車の水素ステーションにも設置しました。
更に太陽光発電も将来的に設置し、電力・排熱・蒸気・水素などの様々な副産物の再利用を含め、
トータルマネージメントを発揮し、一般地域に比べて約30%のCO2削減を達成しています。
上述のような取組みも評価され、2008年には「環境モデル都市」に認定されました。
4. 北九州エコタウン
あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用し、
最終的に廃棄物ゼロ(ゼロ・エミッション)を目指したリサイクル事業等に取組む企業団地
北九州エコタウンは、北九州市が国の承認を受け進めている事業です。エコタウン事業に基づき若松区
響灘地区にリサイクル業を中心とした企業団地(総合環境コンビナート・響リサイクル団地)および企業や大学による実証研究
エリアからなります。
エコタウン事業とは、「あらゆる廃棄物を他の産業分野の原料として活用し、最終的に廃棄物をゼロに
すること(ゼロ・エミッション)」を目指し、資源循環型社会の構築を図る事業です。北九州エコタウンは1997年、
通商産業省より川崎市、長野県飯田市、岐阜県とともに第1号の承認を受けました。
●全国初のエコタウンセンター2001年6月オープン!
北九州市では、これからの「資源循環型社会」を目指して、リサイクル工場や研究施設などを集め、環境と調和したまちづくりを
行う「北九州エコタウン事業」に取り組んでいます。北九州市エコタウンセンターは、エコタウンを支える情報センターとしての
役割を担い、エコタウンでの取組みの紹介等を通じて、環境学習や交流活動に積極的に利用していただくための施設です。
全国各地から視察が相次ぐ中、リサイクル工場や研究施設の視察受付・案内を行っています。センター内では環境・リサイクルに
関する技術、製品の展示やパネルによる北九州エコタウン事業の紹介を行います。
また、環境学習、交流活動、研究活動に利用していただくための施設を提供しています。
5.環境教育
公害の街から真っ青な青空を取り戻し、環境モデル都市へと変貌した北九州の誇り
澄み切った青空、紺碧の海、そして美しい山や川。ごみが落ちていないきれいな街・北九州市。
それらが、環境モデル都市・北九州の誇りです。
かつて公害を経験した街が、環境モデル都市になったのは大きく分けて二つの要因があります。
◆環境技術の開発や環境設備の充実
◆市民の環境意識の高さ
この二つを支えている充実した環境教育の取組みを紹介します。市民の環境意識高揚のため、あらゆる年齢階層の市民の
ライフステージに応じた環境教育、環境学習を展開しています。
日本の急速な産業発展の証明
急速な日本の産業発展を証明する、私自信が携わった仕事!
1901年創業の八幡製鐵所は、世界でトップクラスの技術を持つドイツのGHH社の
設計のもと建設され、操業指導を仰ぎながら日本の近代製鉄が産声を上げた。
しかし、短期間の内に日本の製鉄技術及び設備技術が急速に発達を成し遂げた。
そして、立上げ当初は先生であったGHHを始めとするヨーロッパメーカーと肩を
並べるようになり、その設備技術を基に私自身の海外での仕事が始まった。
製鉄技術の先進地域であるヨーロッパのメーカーを競争相手として、
色んな国々で仕事をしてきました。
1985年から会社を退職する2008年まで8ヶ国で仕事をさせてもらいました。
アルゼンチン、ブラジル、フィンランド、イタリア、南アフリカ、中国、韓国、アメリカ。
アメリカ AK Steel No.4 高炉 南アフリカ ISCOR C高炉
写真は星条旗たなびく、アメリカのAK Steel No4高炉 と
当初先生のGHHに打ち勝ち受注した南アフリカのISCOR C高炉。
なぜここまで短期間の内に、先生であるヨーロッパメーカーに肩を並べ、追い抜き、
世界のトップに踊り出たのか。
この訳は、次回紹介します
世界遺産/官営八幡製鐵所立上げ時の苦難
世界遺産候補・旧本事務所の眺望デッキOpen
このデッキ上から見える製鐵所の景色の裏側に秘められた立ち上げ時の苦難
当時世界のトップクラスの技術を持つドイツのGHH社に全計画を委託。
旧本事務所(世界遺産候補)を始め、下記に示す鉄づくりに必要な最低限の設備をつくった。
①高炉 2基 ②コークス炉 200窯 ③転炉 2基 ④ガス発生炉 12基
⑤混銑炉 2基 ⑥レール工場 ⑦分塊工場 ⑧圧延工場(大型、中型、小型)
⑨加熱炉・均熱炉 22基 ⑩鍛冶工場(世界遺産候補) ⑪修繕工場(世界遺産候補)
⑫工作工場 ⑬貯水池
そして1901年2月1日に東田第一高炉に火が入った。
しかし、最初からつまずき、トラブルの連続、順調に立ち上げるのに
3年もの歳月を要した。
その大きな要因が、筑豊の石炭からつくったコークス。
GHHの設備と操業法は質の良い石炭を使用したもので、建設した
コークス炉や高炉が筑豊の石炭に適合していなかった。
最初はGHHの指導を仰いだが、上手くいかずかなかった。
それから、野呂景義の下、自社で根本的な原因調査から設備の改造や
操業方法の改良を行いながら、1904年7月に再立上げに成功した。
それから、日本の鉄鋼業の発展が始まった。