鉄鋼の産業発展物語 第11話 / 堀川物語
長年の人々の願い、多くの人々の尽力によってつくり上げた堀川・宝川
堀川とは、遠賀川と洞海湾を結んだ人口の河、そのルートは遠賀川から
八幡西区・楠橋、中間市、水巻町そして八幡西区・折尾を経由して
洞海湾洞海湾に繋がる、堀川の全長は12.1Km。
江戸時代初め、遠賀川はいく度も洪水を起こし周囲の村々に大きな被害をもたらした。
このような状況下、筑前藩主黒田長政が、遠賀川の支流をつなぎ、洞海湾にその水を
灌ぐことで洪水や、干ばつの被害を防ぐ目的として堀川を建設することにした。
1621年に着工し、建設中には幾多の困難に直面し、途中で工事の中断もあるが、
多くの人々の知恵と汗の結晶で183年もの歳月をかけて1804年に完成した。
そして、人々が安心して生活を営める環境が整い、堀川は宝川と呼ばれるようになった。
当時筑豊炭鉱で産出された石炭は、遠賀川から芦屋又は江川経由で全国に
運ばれていた。
運ばれていた。
堀川が完成後は川ひらたを使い堀川を経由して若松に運び、そこから全国に
運搬されるようになる。
運搬されるようになる。
1842年には堀川を通過した川ひらたの数が1万隻になり、経由地の中間、水巻、
折尾が繁栄していく。明治に入り、堀川を通過する川ひらたの通過数も大幅に増え、
日本の産業近代化に大きく貢献してきた。
折尾が繁栄していく。明治に入り、堀川を通過する川ひらたの通過数も大幅に増え、
日本の産業近代化に大きく貢献してきた。
しかし、1891年に直方と若松を結ぶ筑豊興業鉄道が開通してから、堀川経由で運ぶ石炭の量が
だんだん少なくなり、1932年(昭和12年)には175年に及ぶ長い期間貢献し続けてきた水運の
歴史が幕を閉じた。
だんだん少なくなり、1932年(昭和12年)には175年に及ぶ長い期間貢献し続けてきた水運の
歴史が幕を閉じた。
水運の役目を終えた後も、水田用に用いられていたが、鉱害により河川の地盤沈下や
微粉炭が堀川に流れ込んだため、水田の用水確保が困難になり、1972年にはパイプに
よって水田に給水するようになった。
また、堀川建設時には、堀川と遠賀川支流が交差する部分に伏越(逆サイフォンの
原理を使った川の交差点)を設けたが、洪水対策を目的として、1986年(昭和61年)に
曲川の伏越が撤去され、翌年には堀川が鉄板で塞がれ、遠賀川は途中で寸断された形をなり、
遠賀川の水が洞海湾に流れないようになった。
完成から200年以上経過した堀川を、再度綺麗な水が流れる川に甦らせて、
宝川と呼べるようにしましょう!