鉄鋼の産業発展物語 第1話 / 八幡製鐵所の苦難の船出
わずか4年で田畑につくり上げた製鉄所、1901年2月5日に東田第一高炉に火が入り、
我国初の近代製鐵所が操業を開始した。
けど操業当初から計画通り生産できずトラブルの連続、ドイツ人も対策を
講じることができなかった。
惨憺たる操業開始時の状況
1901年2月、ドイツ技術の粋を集めてつく大規模生産方式の製鉄所が操業開始。
しかし、その滑り出しは惨憺たる状況であった。 火入れの翌日1.2トン出銑したが、
原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、羽口の閉塞などで3日間休風
(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
原料装入車の故障や断水があり、除塵機のガス爆発、羽口の閉塞などで3日間休風
(操業停止)し、炉底の溶銑が凝結した。
その後対策を行って、操業を進めるもきわめて不良、予定出銑量160トン/日に対して、
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、銑鉄の
品質は概して粗悪であった。そしてついに1902年5月に休止した。
わずか83トン/日、銑鉄1トンに対して多量の1.7トンのコークス消費するありさまで、銑鉄の
品質は概して粗悪であった。そしてついに1902年5月に休止した。
問題の大きな要因
技術導入したGHHはドイツの中堅鉄鋼会社であり機械製作会社であった。最も重要な設備である
高炉や平炉の設計はGHH自体でなく、当時一人者とされていたン個人であり、自ら開発した
実績のない新しい設備が含まれていたのではないか。
高炉や平炉の設計はGHH自体でなく、当時一人者とされていたン個人であり、自ら開発した
実績のない新しい設備が含まれていたのではないか。
そして、わが国の石炭性状に対する知識や認識が甘く、それが設備に反映されてなかったことが
安定操業できなかった要因であった。
安定操業できなかった要因であった。
そのため、日本の原料事情考慮し、日本人自らの手で問題解決する早急に必要があった。
野呂景義による原因究明と対策
日清戦争前に製鉄所建設構想をつくり、我が国初のコークスによる高炉操業を成功させた
野呂景義が急遽呼び出され、陣頭指揮をとる。
野呂景義が急遽呼び出され、陣頭指揮をとる。
①原因の徹底究明
野呂の門下生である製銑部長服部斬が記した操業記録と現場を業徹底的に調査した。
その結果、高炉の構造、高炉装入物の配合、炉内における装入物の溶結、数度に及んだ
送風停止が原因であると指摘した。
結局、操業不調の主な要因は、炉床の冷え込みと使用するコークスの品質に起因することは
明確であるとして、抜本的な改善案を提示した。
②抜本的な設備改善と新しい技術の導入
炉圧に対してあまりにも大きい炉床と、炉内に突出する部分が過大過ぎた羽口構造の
改善を行った。コークス製造において、「二瀬炭に無煙炭もしくは三池炭を配合して、
堅質で大塊のものを製造」という配合技術が導入され、砕炭、洗炭など原料処理技術や
コークス炉の改良が相まって積極的な改善が進められた。
日本の技術者達は自信による高炉操業の失敗の過程を通し、外国人技術者の設計と
操業指導が必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
操業指導が必ずしも当を得たものではなかったことを明らかにした。
このように、我が国の自然的諸条件を軽視又は無視した技術の在り方が批判され、
生産技術の実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な
限り改良がおこなわれた。
生産技術の実際的諸経験に基づいて、野呂景義の指導のもと、東田第一高炉は可能な
限り改良がおこなわれた。
一方、高炉で生産された銑鉄を精錬する製鋼部門でも、高炉と同じような欠陥があり、
その分野でも抜本的な改善がなされた。
再火入れ
1903年7月23日に再度火入れされ、以後操業は快調で1910年6月2日まで連続稼働し、
2140日に亘って出銑を続けた。
八幡製鐵所創業の意義
人々の汗と努力が実を結び、鋼材生産高は著しく急増し、日本の国づくりに大いに
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける原動力と
なっている。
貢献することになった。
そして、これまで、八幡製鉄所が培った高炉操業技術は、世界に誇る鉄鋼生産技術と成長し、
戦後の経済発展の基盤とし、また鋼材輸出や海外への進出など著しい活躍を続ける原動力と
なっている。
生みの苦しみから一世紀余を経て、母なる八幡製鉄所の創業意義は極めて偉大である