鉄鋼の産業発展物語 第5話 / 日本の産業革命の始まり
300年も遅れていた日本の鉄づくり
日本で初めて、佐賀藩で反射炉法による鉄づくりが行われた1853年当時は、
ヨーロッパに対して約300年以上も技術が遅れていた。
ヨーロッパに対して約300年以上も技術が遅れていた。
1490年にはイギリスで高炉操業が始まり、1543年には鋳鉄製大砲の生産を開始した。
そして、1709年にはコークスによる高炉操業に成功した。
1783年にはパドル法反射炉が開発されたが、反射炉では高品質の鋼を効率的に
量産できなかった。 そのから、次第に高炉法による鉄づくりに移行していった。
そして日本で初めて反射炉で鉄づくりが始まった時は既に、高炉法によって
高品質の鉄を連続的に量産できる技術が発達していた。
高品質の鉄を連続的に量産できる技術が発達していた。
日本の産業革命の始まり
鎖国政策で海外との交易をオランダと中国に限定していたが、次第に外国船が来航し、
日本との交易を求めてきたが、幕府はそれを断り続けた。
鍋島直正 技術書 反射炉
しかし、植民地化の危機が迫って来たため、日本各地で国防の機運が高まった。
そして、最初に行動を起こしたのが、長崎の警備を担当する佐賀藩の鍋島直正で、
1847年に幕府に海防の必要性を献策するも、その提案は却下された。
1847年に幕府に海防の必要性を献策するも、その提案は却下された。
そのため、佐賀藩は独自で動いた、それが大砲をつくるための反射炉をつくることであった。
しかし、上述のようにヨーロッパに対して300年も技術が遅れている日本が、外国の技術者を
招聘することの叶わない時代でもあった。
招聘することの叶わない時代でもあった。
そこで、鍋島直正はオランダのヒュゲン著の技術書「ロイク国立製鉄大砲鋳造所における鋳造法」
の翻訳を伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。
の翻訳を伊東玄朴に命じて大島高任達と完成させた。
これが、日本が産業革命を行う第一歩であった。
今まで古来の「たたら製鉄」でしか鉄をつくったことのない日本が、原理しか記載していない
ヨーロッパの技術書を解読しながら、反射炉づくりを開始した。
ヨーロッパの技術書を解読しながら、反射炉づくりを開始した。
第6話では、苦難の反射炉づくりを紹介します。